056

研究が縁で福島に暮らして11年。人間らしくなった自分が、前よりも好き

辺見珠美

一般社団法人とみおかプラス/川内盛り上げっ課
福島 富岡

川内村での暮らしに魅せられて。興味の対象が変わった。

─── ボランティアの後、すぐに移住を?

いえ、土壌採取のボランティア終了後は、岩手県大槌町で足湯のボランティアをしたり、一旦東京へ戻って、避難してきた富岡町の子どもたちに学習支援ボランティアをしたりしていました。そうしたところから富岡町の人たちとご縁が広がり、タウンミーティングにも参加させてもらうようになっていったんです。

そのような活動の中で、就職先として被災地を考えました。富岡町も視野に入れて就職活動をしたのですが、当時、富岡町は警戒区域に指定されていて人が入れなくて。それでも、ホームページを見ていたら、偶然にも隣にある川内村に福島大学のサテライト(うつくしまふくしま未来支援センターいわき・双葉地域支援サテライト)ができて、放射線担当の職員募集をしていると書いてあったんです。

「これは運命だ!」と、すぐに応募して、採用が決まり、移住を決めました。それが2012年10月ですね。

─── 移住について、ご家族の反対はありませんでしたか?

震災直後に土壌採取のボランティアに行くと言った時は、母には心配されました。でも自分なりに放射性物質について学んだことを伝え、データも見せて、福島に行きたい理由をきちんと話していくうちに、納得してくれました。

だから改めて移住が決まった時には、もう「やりたいことをやりなさい」と言って送り出してくれました。

─── 川内村ではずっと放射線調査に関するお仕事を?

大学のサテライトスタッフとして、放射線量測定や放射能をはじめとする生活の心配事を聞いたりする仕事を2年ほど続けました。同時に福島県内の仮設住宅にボランティアをしに行くようにもなって。

だんだん川内村の人たちと、とても親しくなっていって、川内村がどんどん好きになっていったんです。

それでサテライトの任期が終わった後も川内村に残ることに決めて。その後はカフェでアルバイトをしたり、「川内盛り上げっ課」という団体を立ち上げ、講座やイベントを開いたりして活動したり、と色々やっていました。興味の対象が、放射能の分野から、川内村での地域の暮らしに変わっていったんです。

─── どんなところがそれほど魅力だったのでしょう?

私は子どもの頃から、都心のマンション育ちで、隣人との付き合いもなくて。母子家庭で母の帰りが遅かったので、夕方からは祖父母の家に預けられたりして、心なしか寂しい思いをしていたところがありました。

でも、川内村の人たちの暮らしは、そういう生活とは真逆で。村中みんなが親戚みたいで、人との距離がめちゃくちゃ近いんです。そういうところに飛び込んでみたら、意外と面白くて、合ってたんですよね。

外からきた私のことを気にかけてくれて、お野菜を分けてくれたり、お茶を飲みながら話をしてくれたり。

「みんなが避難して出て行くところに、なんで来たの? 面白い子だねぇ」と言って、親切にしてくれました。

川内村にきて、人とつながることの楽しさや大切さに気づくようになったんです。社会人としても人としても、川内村の人に育ててもらったと思っています。

写真 本人提供
1 2 3