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広域避難者として戻った故郷で、「相談」を続けてきた自分に起こった変化

澤上幸子

NPO法人えひめ311事務局長
愛媛 松山

双葉町社協で迎えた、東日本大震災当日

─── 幸子さんは東日本大震災の広域避難者支援を続けてこられています。ご自身も避難の当事者だけれど、元々は、ここ愛媛の方なんですね。

そうです。松山の道後温泉からちょっと山の方に行ったところに実家があります。
高校を卒業したら海外に行きたいなっていう希望がずーっとあって、働きながらお金を貯めてチャンスを伺っていたら、イスラエル大使館が日本の若者をキブツ(共同生活村)に派遣するプログラムがあったんですよ。変わったプログラムだから似たような関心のある人が集まっていて、双葉町出身の夫とはそこで出会いました、気があったんですね。結婚して1999年から、夫の両親と一緒に双葉に住んでいたんです、本当、普通に暮らしていました。

─── 双葉にいた頃は何をしていたんですか?

誰も知らないから、まずは町に馴染みたいなあと保育園で働きました。そうすると双葉町のいろんなつながりができますよね。その後、双子を出産して一旦仕事を辞め、子どもが保育園に行けるようになってから町の社会福祉協議会(以下、社協)で働くようになりました。

社協では、高齢者や障がい者の困りごとを聞きに行ったり、訪問入浴に行ったり。あと、給食サービスでお弁当の配達もしました。町じゅうをワーッて走って60軒くらい伺って声かけてお弁当渡して、楽しかったなあ。向いていたんでしょうね。思えば小中学校の時から、先生に声かけられて障がいのある子とペアを組んでお世話したり、そういう性質があったんだろうと思います。働いてみて一層、福祉が自分のやるべき仕事なのかなって思っていたところですね。でも社協では2年ぐらいしか働けてないんですよ、社協で働いているときに震災が来たので……。

─── 当時、お子さんもまだ小さかったですよね。

3歳でした、子どもたちは家でばあちゃんがみていてくれて無事でした。社協は避難所になり、さらに双葉町災害対策本部も設置されることになって大混乱で。そんななか、いつも私達がケアしてる人たちが避難してこない、助けに行かなきゃ、って仲間たちと向かって、何人かは助けたけど、無理だった人もいたり……津波も来ている、危ないって社協に戻ったら、びしょびしょで震えている人たちがどんどん運ばれてきて……。家族は避難したんですが、私は社協のみんなと行動していました。自力で避難できない人がたくさんいましたから誘導が必要で、その人たちを置いていくわけにいかない。

─── 幸子さんが町から避難したのはいつだったんですか?

2日後の深夜だと思います。近隣の川俣町の高校の体育館にデイサービスのおじいちゃんおばあちゃんを6人ぐらい連れて行って着いたら真っ暗で寒くて……。明るくなって社協の人たちが見えたので合流して、オムツ交換とかしてたら、うちの夫が探しに来たんです。夫を見た瞬間になんかもう、張りつめていた何かが崩れて大号泣してしまいました。子どももまだ3歳なんだから家族のところに戻ったらいいよって上司も言ってくれて。ろくにさよならも言わず、こっそり抜けてきたような感じでした、すごい罪悪感でごめんなさいごめんなさいって心の中で唱えながら出てきました。

─── そうだったんですね。そこからすぐに愛媛に避難を?

途中親戚の家に泊まったりしながら、3月17日には、愛媛に着いていました。夫の父が東電関連会社の安全グループにいた人で、一刻も早く、子どもたちを連れて行きなさいって。夫もすぐ後に、フェリーで追いつきました。

最初はもう本当に、この愛媛のゆるい空気感が嫌で。何も破壊されていない瀬戸内の海が綺麗なんですよ、憎らしいっていうか、今考えればおかしかったんでしょうね。こんなに遠いところまで、福島のあの感じが伝わらないことへの変な気持ちでした。

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