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地域の足元を照らす。漁師だった父に与えられた使命だと思います
眞下美紀子
北三陸ファクトリー 取締役
岩手 洋野
地方創生の波と打ち寄せられたダイヤの原石
─── そんな状況からUターンするきっかけってなんだったのでしょうか?
いろいろありました。まず、社会的に言うと、2014年から15年って「地方創生元年」だったんです。いろんなところで“地方創生”という言葉が聞こえ始めて、私はその言葉に自分の地元を重ねてアンテナを張り始めたんです。被災地のリーダーが特集されている新聞や雑誌を読んでは、「会いたい!」と思った人を手帳にメモ。その人が講演会をすると聞くと会いに行って出待ちして名刺交換したりしてましたね(笑)。
2014年の年末、久しぶりに洋野に帰省して同級生と飲んだとき。私が噛み付いただけなのかもしれないのですが、「お前はいいよな。東京に住んで遊んでいい思いしてさ」というようなことを言われたんです。その場では、「いやいや、役割じゃん。地域の中にいて盛り上げようと頑張る人もいるし、私は地域の外から発信しようと思ってるよ」って返したんですが、実際には何にもできてなかった。そのとき、「ちゃんと私もアクションを起こそう」と思いました。そして偶然、東京へ帰る新幹線で読んでいた雑誌に、現在のうちの社長である下苧坪(したうつぼ)之典が載っていたんです。洋野というちっちゃな町から、「地域の魅力を世界に発信する」って言ってる人がいるんだ。会ってみたいな、と手帳のリストに加えました。早速会社のホームページのお問い合わせフォームから、「今、東京にいるんですけど、地元のために力を注ぎたいと思っておりまして、何かできることはありませんでしょうか」というメールを送りました。すると下苧坪からすぐにFacebookで友達申請が来ました。
─── え、問い合わせフォームの返事がFacebookですか! 怖い(笑)!
そうですよね(笑)。「洋野町出身者に悪い人はいないと思うから申請させてもらいました」という言葉と、「地域が元気になるためにはまずはブランディングだ。強いブランドがなければ何も発展できない」と、熱いメッセージが書いてありました。その後、下苧坪が東京の展示会やイベントに来るときは手伝いに行くようになりました。
同じ時期に、「東北オープンアカデミー」という2泊3日の研修にも参加しました。被災地で社会課題解決に挑んでいるリーダーたちに学ぶというフィールドワークでした。洋野町コースもあり、受け入れ先が下苧坪の会社でした。参加費5万円だったので、「5万払って帰省するようなもんだな」と思いながらも、やっぱり地元が気になって洋野を選びました。
研修最終日、下苧坪が自分の夢を語ってくれました。「ここに人が集って、洋野町を含む北三陸地域の食材を食べながら、お酒を飲んで楽しむ。そんな、地域の“食”を軸にした賑わいをつくりたい」。深く共感する一方で、当時は立派な加工場も人が集える場所もなかったんです。言っちゃあなんですが薄汚い小屋みたいなところしかなくて(笑)。彼の夢はダイヤの原石だったんです。本当に未完成だった。私はこの未完成を差し置いて他に何かをするという気にはなれませんでした。
─── 片や、美紀子さんの東京でのお仕事も、誰もができることではなく、とてもやりがいがあったんじゃないかと思います。
そうですね。実は、2013〜16年ごろは会社が急成長した時期でもありました。店舗数も倍ぐらいまで増え、組織体制の変更なんかもありました。そんな変化の中で、私あんまり大企業で働くのは向いてないかなと思ったんです。企業が大きくなればなるほど、それぞれの仕事は細分化、専門化されていきますが、私自身は全体の流れをつかんでいろんなことに足や首をつっこんでいたいタイプなんです。でも会社は好きだったので、どうにか辞めずに洋野町と関わっていけないかと副業を提案したんですがダメでした。「じゃあ辞めよう」と、Uターンして下苧坪の会社に入ったのが2016年の春でした。