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地域の足元を照らす。漁師だった父に与えられた使命だと思います
眞下美紀子
北三陸ファクトリー 取締役
岩手 洋野
地域産業と人の好循環を生み出したい。18歳の願い
─── 美紀子さんのキャリアのスタートを教えてください。
少しさかのぼって、高校生のころのお話から始めますね。当時、父はイカ釣り漁船の船長をしていて、海難事故に遭ったんです。父は無事だったんですが部下である乗組員の方が亡くなってしまったと記憶しています。その頃すでにイカが不漁になり始めていて、父が勤めていた八戸の漁船会社も経営が苦しくなっていました。私の推測ですが、そういう不安定な状況に事故が重なったことが原因で父は精神的に病んでしまいました。
私は高校3年生で、ちょうど「進路をどうしようかな」と考えていた時期でした。進学校に通っていたこともあって、周りはみんな大学進学に突き進んでいたわけですが、事故をきっかけに私は「大学の先にある“働く”ってなんだ? “仕事”ってなんだ?」ということを強烈に考えさせられました。当たり前のように「八戸はイカが有名だよね」と言われますが、全然当たり前じゃないんだなって思ったんです。地域産業を支える人がいなければ産業は成り立たないんだな、と。イカ釣り漁の不振、会社の経営難、働く人のメンタル不全……そういう、「負の循環」にはまっている。将来何になりたいのかはハッキリしていませんでしたが、「地域産業と人の好循環」を生み出したいなと思いました。
─── その後、どういう道を選ばれたのでしょうか?
東京の短大に進学し、その後名古屋の大学に編入、卒業後は広告系の会社に就職しましたが、4年後に飲食業界に転職しました。改めて「地域産業と人の好循環」という18歳のときの想いに立ち返り、それが何で実現できるかと考えると、「“食”だ!」という答えにたどり着いたんです。
地元・洋野町を振り返ると、おいしい食べ物がいっぱいありました。地域で生産者が作った食材は、シェフによっておいしい料理になり、提供する人のホスピタリティが加わってサービスになる。そしてサービスを受けるお客さんは、一つのテーブルを囲んでワイワイ楽しむ。人が食という産業を作り、食が人を喜ばせる。だから“食”だ! という発想です。店舗運営を経験したかったのもあり、転職先は全国チェーンの焼肉店に決めました。
─── 転職は2008年だったので、東日本大震災は入社3年目に経験されたんですね。
はい。震災当時は名古屋の店舗で副店長として働いていました。大きな地震が来て、休憩室のテレビをつけたら「八戸、釜石、石巻」って知っている地域のひどい姿が映し出されていました。幸い、うちの家族はみんな無事でした。
まだ混乱が続いていた3月末、会社から新しいプロジェクトに抜擢されました。飲食事業に新規参入する企業のアドバイザー的な役割で、各店舗に2〜3ヶ月滞在して店長を育てるという仕事でした。各地を転々とするので、「しばらく実家にも帰れないぞ。それでもいいか?」と言われましたが、引き受けました。それから1年間は静岡、福井、岐阜、熊本と文字通り全国を飛び回りましたね。その仕事ではすごく成長させてもらったんですが、当時の選択を振り返っては悶々としていました。「地元のことをずっと思ってきたのに、私はあのとき仕事を選んだ。自分なんなんだ……」って。