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いつでも、自分が来た道を認められるように。コツは「独自解釈」

菊地陽子

大野村農園
福島 相馬

“農業”という生活がしっくりきた

─── 陽子さんと農業の出会いってなんだったんですか。ご実家は農家じゃないですよね?

うん、全然違う。地元は香川県高松市で、農業とは無縁の生活でした。神戸大学に進学して環境系の勉強をしてたんやけど、講義で「環境について書け」っていうすごいざっくりしたレポートが出て。農業分野から書こうと思って農業についての本を読み漁るうちに、農業って面白いなーと。大学院の専攻は「分子生物学」で、大腸菌を培養してDNAを組み替えて……みたいなことをやってました。周りは研究職系に進む人が多かったんやけど、ウチは天気の良い日も1日研究室にこもってるのが「つまらんな」と思ってたんです。なんか太陽を無駄にしてるような気がして(笑)。あと、パソコンの前に座ってるとすぐに眠たくなるから、「これは普通の企業に勤めたらヤバいな……、外で体を動かす仕事がいいな」と思ったのがきっかけでした。大学院を出て香川県観音寺市の農業生産法人に就職して、そこに研修に来ていた夫と出会いました。

─── 非農家から農業の世界に飛び込まれて、どんな印象でしたか。体力的にキツいなぁとか?

キツかったです。でもキツいのは想定内やったかな。就職って、どの会社に入って何をするかはもちろんやけど、どこに暮らしてどんな生活をするかっていうのも決まるやん。朝起きて、チャリで農場まで行って、道中も畑や田んぼがあって……っていう生活がなんかしっくりきたんよね。あと、外で働いてても眠くなるっていうのも知りました(笑)。ビニール洗いとかニンニクの根切りとか。

─── その後、二人で相馬に移住したのは震災後ですよね?

出会った頃から夫は地元の相馬に戻って農業すると決めてました。ウチは農業ができれば、別に会社員でも自営でも良かったし、場所もこだわりはなかったので夫と相馬に行くことは自然な流れでした。結婚して移住するか、というときに東日本大震災が発生。1か月後には夫は相馬に戻って畑を始めました。当時は相馬で作物を育てていいのか、これから世の中の情勢がどうなるかもわからん状況。だんだん放射性物質の検査が進んで、ここで農業しても大丈夫だってことがわかってきて、ウチは2012年の1月に相馬に入りました。

─── 不安はなかったですか?

そんなに、かな。余震が多いので親は心配しよったけど。しばらくは風評被害を感じましたが、そういう人がいても仕方がないかなと思っていました。逆に、日本中が福島応援ムードやったし、夫も「福島・若者・新規就農者」ということでかなりメディアにも取り上げられたので。良いことも悪いことも両方ありました。

─── 農園の中で夫婦の役割分担は?

事務作業、出荷、お客さんとのやりとり、経理とか数字関係はウチ。現場で畑つくったり、研修生に指示出したり、メディア対応、SNSでの発信は夫かな。

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