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コミュニティナース、畑へ。看護師人生で今が一番たのしい

星 真土香

コミュニティナース / HATARAKU〜畑多楽〜
岩手 紫波

忙しくてヘトヘトだった病院勤務。自分の人生を見つめ直す

─── 真土香さんは、紫波町でコミュニティナース*の活動をされているんですよね。看護の道に進もうと思ったきっかけは何だったんですか?

実は私、もともと看護師になりたくてなったわけじゃなくて。刑事になりたかったんです。
踊る大捜査線の「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」っていう言葉に感銘を受けて、刑事に憧れて。ただ、高校3年生のとき、刑事の採用試験の申し込みをしようと警察に電話したら、“昨日締め切りました”って(笑)。刑事の夢はそこであっさりと破れました。

─── なるほど(笑)、それで?

クラスの大半の女子が看護学校への進学を希望していたので、周りの流れに乗っかって看護学校に進学することを決めました。
それと、頭の片隅に残っていたのが阪神淡路大震災でした。看護師が仮設住宅を訪問している様子をテレビで観たことも、看護の道に進もうと決めたきっかけの一つです。
看護学校を卒業後は、花巻市にある病院に5年ほど、二戸市の県立病院に1年ほど勤務し、その後仙台の病院に移りました。

─── 仙台に移ったんですね。病院での仕事はどうでしたか?

かなり多忙な日々を送っていました。次から次へとナースコールが鳴るし……。お看取りを迎える人がいて、亡くなった家族が泣いているにも関わらず、寄り添う時間すらなくて。患者さんの話を聞く余裕もなく、次のナースコールに行かなきゃいけない。もう、いっぱいいっぱい。自分に能力がなかったですね。

─── いやぁ……相当大変だったと思います。

心も体も不健康状態で。そんな私が、患者さんに対していい看護が出来ているのか? 感謝されるようなことが出来ているのか? と、いつまで経っても自信がなくて。正直、やりがいを感じられずにいました。
一方で、患者さんとお話するのはすごく好きでした。本当に、色んな人と話をさせてもらって。病気を抱え、命が切羽詰まった状態でのコミュニケーションって、すごく難しい、だから本心が出るから、対人間で話せるんです。話す時間さえあれば、もう少し違っていたのかもなぁ。

───  震災の時も仙台にいたんですか?

はい。仙台の病院に勤めて4年目の時に東日本大震災が起きました。私の勤務先は沿岸部ではなかったので、津波の被害はありませんでしたが、よく遊びに行っていた場所に津波が来て、その様子を目の当たりにしました。
今まで看護師として様々な死を見てきたけれど、その時自分も死ぬかもしれない、と初めて思ったというか。死を身近に感じたからこそ、改めて自分の人生を見直さないといけないなって。

───  ある意味、震災がターニングポイントになったんですね。

そうですね。とりあえず病院勤務は10年続けて、それでも辞めたいって気持ちが続いていたら辞めようって思っていたので、病院を辞めることにしました。
その後は、看護師の資格を活かして、東北大学病院の研究の分野に勤めました。東北各地の病院から検査データをただひたすらに集める、カルテとにらめっこしている仕事なんですけれど。

定時上がりが出来る、すごく豊かな暮らしをさせてもらって。仕事終わりに居酒屋に通うのが好きでしたね。当時通っていた居酒屋の親方が、お店を手伝ってくれない? って声をかけてきて、誰もいないなら私やろうかな! って。そこから看護師と居酒屋の二刀流生活がスタートしました。

───  二刀流! 面白い! どんな居酒屋だったんですか?

元フレンチシェフの、60代の親方がやっている焼き鳥屋なんですけど、焼き鳥屋って言いながら、実は洋食を頼んだ方が美味しい(笑)、まかないも美味しかったなぁ。
居酒屋のコミュニティって面白くて、来たくなる場所の作り方だったり居心地の良さがあって、とても勉強になったんですよね。今私がやっている場づくりも、実は居酒屋を参考にしていて。親方ならどうするかなーって。

───  食と看護、ジャンルは違えど、今の活動の原点になっているわけですね。

そうなんです。それと面白いことに、健康診断の結果を私に持ってくるお客さんがいて。背中が痛いんだけど何科に行ったらいい? って相談するお客さんもいました。
今まで病院で働いていましたが、身近な暮らしの場に看護師がいることで人に役立つこともあるんだなって。そんな風に看護師の可能性を感じながら、5年くらい居酒屋で楽しくバイトをしていました。

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