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社会を変えたければ政治を拒否することはできない、諦めたくない
大塚愛
岡山県議会議員/大工
岡山
福島で作り上げた自給自足的な暮らし
─── 愛さんは岡山出身で、今は岡山県議をされています。東日本大震災以前は、福島で大工として自給自足的な暮らしをされていたと聞きました。そもそも、どうして大工になろうと?
教職を目指して岡山の大学で教育学部にいたんですが、卒業の前年に阪神淡路大震災が起きたんです。それで、ボランティアに行ったら全国からいろんな人が集まっていて。世界って広いな、いろんな生き方があるなって思う時期でしたし、卒業後すぐに教職に就くんじゃなくて、自分を育てるような生き方を2年ほどやって、もう1回考えようと思ったんですね。ネパールやインドに行ったり、障がい者のお店を手伝ったり、ボランティアをやったり、いろんな活動を経験するうちに心持ちが変わってきて。
24歳の時、2か月かけて四国のお遍路さんを歩きました。自分は本当に何がしたいんだろうって考える旅の中で、やっぱり自然の中で暮らしたい、農に携わりたいっていう思いがどんどん強まりました。さらに、旅の途中でインスピレーションを受けるような出来事があって。
─── インスピレーション?
高知市を過ぎた辺りで、山から運び込まれた丸太がいっぱい積んである製材所の横を通った時に、その木にすごく、気持ちが惹かれたんですよね。あ、なんだろう、この気になる感じは?って。お遍路さんって八十八カ所もあるんだけど、お寺での時間は1%ぐらいで、99%は歩いてるんです。それからも数日歩いていたんですが、本当にただただ歩いて、ほんとに空っぽになった時に、「大工」がやってきたんです。自分の中からぼわんって湧いた感じもしたし、どこかから飛んできた感じもした、何か考えていて思考の続きで出てきたんじゃないんですよね。
─── えー、面白いですね。
面白いでしょ。四国って、やっぱりそういう場所なんですよ。だって昔から何百年と常に、何かの思い、どう生きるかっていう真剣な思いを持った人が歩き続けている。その後のことを考えると、私もそこから始まったなと思います。とはいえ大工さんと言っても、街のハウスメーカーのイメージではない。どこから入ればわからなかったから、まずは農から始めようと研修先に選んだのが、福島県の川俣町にある農場でした。そこで1年研修した後に、ご縁のあった川内村で暮らし始めたんですけれど、その年に私の思い描いていた通りの大工の親方に会えたんです。「あ、今、船が来たんだ」っていう感じ。とはいえ本気でやらないといけないことだから悩みましたけど、思い切って弟子入りしました。そこから4年間、毎日現場に通って、休みの日は田んぼや畑を作ったりしていました。
─── 川内村では、お一人だったんですか?
犬が一匹いました(笑)。4年間の修行期間で弟子をやっていたんですが、3年目にお付き合いをしていた建築士の彼が福島に来ることになり、4年の年季が明けてすぐに結婚。1年かけて自分の家を建てました。その年に子どもも生まれたから、当時は、子育てしながら親方の仕事を手伝ったり、自分で仕事を受けたり。自然の中で、大工と農業をしながら暮らしていましたね。
─── そこで2011年の東日本大震災と原発事故が来て……岡山に戻ってこられたんですね。
はい、福島に来て12年目でした。私の住んでいた場所は、電気もガスも水道もない山の中で、電気は自家発電、水は井戸、ガスは使わず薪で調理と全部自分で作っていたので、大震災があってもライフラインが止まることはなく、普通に通り過ぎていたんです、原発事故さえなければ……。
津波が来て、フクイチの冷却装置が止まっていますという情報が入ってきて、もうこれは、本当に大変なことが起こっている、少しでも原発から離れなきゃと思って3月11日の夜に泣く泣く、そこでの暮らしを置いて車で家を出て。翌々日には岡山に着いていたかな。