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南三陸に育てられた分、私らしくできることを「まちづくり」につなげたい

大場黎亜

株式会社Plot-d 代表取締役/プロットデザイナー
(一社)東北GYROs 代表理事
宮城 南三陸

教員を目指していた学生が、ボランティアで南三陸へ。

─── 黎亜さんが、南三陸に来たのは震災後のボランティア活動が最初だったんですよね?

そうです。私は東京出身で、2011年3月は大学3年生になろうという時期でした。ただ、震災後すぐは、ボランティアに行こうとは思っていなかったんです。当時は放射能の影響も強く懸念されていたし、学生の自分にできることは思い浮かばなくて、何かしようという気も特にありませんでした。ボランティアに行くには、何か支援のためのスキルやお金が必要なんだろうと思い込んでいたんですね。

─── どうして、気持ちが変わったんですか?

通っていた大学は地方から来ている友人も多くて、東北が実家という人も結構いたので、実際に実家や親戚が被害に遭っている人もいました。それを知って、最初は、物資を東北に送ったりする活動が大学でも行われていたので、出来る範囲で少しだけ自分も送れるものを送ったりはしました。「あ、こうやって東京にいてもやれることはあるんだな」とは思いましたが、それでも積極的に何かすることはなかったです。

その後、同じサークルの山形県出身の友人が、震災の影響で大学が休講だった間に、ご実家の旅館で、福島から避難してきた家族を受け入れてサポートしていたという話を聞いて。その友人が、夏休みに東北芸術工科大学で福島の子どもたちを招くキャンプをするというプログラムの手伝いに誘われたということで、私ともう一人のサークルの友人とでその手伝いに参加しました。そこで、初めて「ボランティア」らしいことをした気がしますね。

─── その後、東北に向かうと決めたのは?

後期の授業が始まった時に、ある先生が初回の授業で「今、一番大切なものは何か?」と聞いたんですね。多くの学生が震災のことに触れ、東北の復興や原発の解決が大切と発表したんです。でもその時先生が、「震災復興が大事と言った人は福島の野菜が食べられるか?」と問い直すと、答えられる人がほとんどいなかったんです。この先生は、決して福島の野菜を否定していたのではなく、まだ情報が曖昧だった時期でしたが、「福島を応援したい」ということに対して、じゃあそこの野菜を食べて応援できるかと言ったらできるかもできないかも分からないようなことで、「復興が大事」「応援したい」と言っているのはどうなんだ、ということだったんです。つまり、メディアの情報だけを鵜呑みにして、自分ごととして捉えていないことを「大切」というな、と。そういう教員にはなるな、というメッセージだったんです。

その時、すごく納得したんですよね。それで、教員になるためには、震災を自分の言葉で語れる必要がある、と思ったんです。今の状況を見るべきだと思ったし、伝えていけるようになる必要があるんだなと。ただ、どうせ行くならただ見に行くだけなんて時期でもなかったので、ちゃんとボランティアをして帰ろう、と思って行き先を探しました。

─── 当初は、教師になるという視点で現地に入ったんですね。でもその後、ずいぶん長い間、宮城県南三陸町で、災害ボランティアとしての活動を続けられたんですよね。

はい。最初の頃は陸前高田や気仙沼も見て回ったんですが、たまたま行き先の一つだった南三陸で、すでに長くボランティア活動をしている人たちと知り合いになれたんです。そして月1回は通うようになりました。

震災から1年経っていない現場では、御遺骨を見つけることもあったし、“瓦礫”と称される、誰かの大切な思い出の物に触れながら、ただただ手を動かしていました。言葉にはできなかったけれど、胸にくるものがあって、安易にやめることはできなかったんです。

そのうち、当時一番若手だったにも関わらず、ボランティアリーダーの一人に選んでもらって。その後は毎週、木曜日の夜に夜行バスに乗って南三陸に来て活動をし、日曜日の夜に東京に戻って大学の授業に出る、という生活を3年以上続けました。休んだのは教育実習をしていた時期だけでしたね。

─── 大学を卒業後は、教職にはつかなかった?

学部卒業後に教員になることも考えましたが、通い続ける中で「まだ終わっていない」という気持ちも強くなりましたし、同時に「今教員になって、自分の口で伝えていけるか」という点においてもまだまだだなと思ったんですね。時間が経っても、被災地のニーズはなくなるわけじゃない。形を変えて必要な支援はあるわけで、現場もどんどん変わっていくんです。だから、私はリーダーとして残ってバトンをつないでいこう、と思って。地域の人たちとコミュニケーションをとって、どんなことができるかを考える役割を担うようになりました。

なので、もっと時間が欲しいと思って、大学院への進学を決意しました。それに、大学院にいる間に、教壇に立つことだけが教育じゃなく、今いる場所で必要とされることに向き合い、周りと協力しながら一緒に育んでいくことができたら、それも一つの教育なんじゃないか、と思うようになったんです。

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