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南三陸に思い出の栗園を復活させたい。栗から広がる大きな夢
大沼ほのか
大沼農園(果樹農園)
宮城 南三陸
南三陸に戻ることになったときは、あまり気が進まなかった
─── ほのかさんは南三陸町歌津のご出身ですが、生まれてからずっとこちらに?
小学6年生のときに、震災に遭いました。私の家は商店街の一角にあって、すぐ近くが海で、自宅は津波で流されました。母はそのとき、移動販売のクレープ屋さんをやっていて、その日は気仙沼にいたんですけど、車を捨てて、なんとか逃げて命が助かったんです。幸いにも家族はみんな無事でしたが、それ以外はすべて失いました。
被災後、すぐに仮設住宅に入れなくて、一家で北海道の江別市に引っ越しました。父はそれまでサラリーマンでしたが、いつか農業をやりたいという夢があったみたいで、北海道では農業研修をしたり、養鶏農家の元で養鶏を学んだりと、新たな夢に向かって進んでいました。2年後に仮設住宅に入れることが決まり、南三陸に戻ることになったのですが、私も姉も妹もあまり気が進まなくて……。
─── それはまたどうしてですか?
南三陸ってやっぱり田舎で、田舎特有の居心地の悪さがあるんですよ。例えば、小学校で花瓶を割っちゃったとします。すると、翌日には近所の人とかいろんな人から、「学校で花瓶を割っちゃったんだってね〜」「気をつけなさいよ」って言われてしまうんです(笑)。別に悪気はないんですよ。でも、周りの人が何でも知っているという環境が、子どもながらに窮屈に感じていて。あと外の人を受け入れないところとか、すごく閉鎖的で。遅かれ早かれ、ここは出ていくところと思っていました。だから、震災でこの町を出たときは、正直ちょっと嬉しかったんです。
でも、父は生まれ育った南三陸で根を張りたい、「ここで養鶏をやるんだ!」って強い意志を持っていて。父の気持ちも理解できなくはなかったので、邪魔はしたくないし、仕方なく戻ることにしたんです。ほんと、渋々です。
─── そんな複雑な思いがあったのですね。
でも、戻ったら祖父母はいるし、懐かしい人たちにも会えて楽しかったですよ。ただ、町はたいして変わっていなかった。瓦礫がきれいに取り除かれたくらいで、まだ嫌でも被災地であることを実感しましたね。
─── 農業に興味を持ったきっかけは?
祖父が小さな田んぼを持っていて、小さい頃に親戚が10人くらい集まって、よく田植えや稲刈りの手伝いをしていました。農作業は楽しかったですね。それと、小学生のときに学校で栗拾いの行事があって、毎年たくさん栗拾いをした思い出があって。拾った栗は、近所に配ったり、家族で焼いて食べたり、おばあちゃんが栗のおふかしを作ってくれたり。そのすべてが楽しくて、今でもその頃のことを鮮明に覚えているんですよね。
でも、その思い出の栗園はなくなってしまって……。震災の直接的な被害はなかったと思うのですが、徐々に管理する人が減って、土地が荒れ果ててしまって。それを見たときは、ショックでしたね。でも同時に、もう一度、あの場所を取り戻したいと強く思うようになって。私が里山で楽しく栗を拾えたのは、農家さんの努力があったからだったんだなぁ〜、と気づかされたんですね。また、この町で子ども達が気軽に農業体験できる場所を作ることはできないだろうか。ちょうどその頃、高校を卒業した後の進路に悩んでいたのですが、その時にパッと自分の進む道が見えたんです。「南三陸に栗園を復活させるぞ!」って(笑)
そして、農園をしながら、自家製の栗を使った農園カフェをやりたいって、夢はどんどん広がっていきました。