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空き家、耕作放棄地、使われなくなってしまったものに手を加え未来につなぐ
中村未來
合同会社でんでんむしカンパニー 代表
宮城 南三陸
ここにリアルな暮らしがあったと実感したとき、再建の手伝いをしたい思いに駆られた
─── 未來さんは東京出身だそうで。南三陸に移住する前は何をされていたのですか?
高校卒業までは東京の府中市で過ごし、大学進学で鳥取へ。大学では建築を専攻し、住居や施設などさまざまな建物について学びましたが、なぜか空き家や廃墟に興味を持ちまして。ゼロから何かを生み出すよりも、使われていないものに手を加えてアップデートしていくことに魅力を感じて、コンセプトづくりやダイアグラム(情報を整理し図版化すること)、実施設計などを行う卒業制作も廃墟建築がテーマでした。
でも、それはあくまでも研究でのこと。卒業後は大阪の設計事務所に就職し、あらゆるものを作りました。小さな設計事務所だったので、とにかく忙しくて。一応、土日が休みなのですが、金曜の夜にならないと休めるかどうか分からないという……、なかなかハードな職場でしたね(笑)。
─── では、震災のときは大阪に?
社会人2年目のときでした。すぐに行きたい気持ちはあったのですが、仕事を休めたのが8月の4日間だけで。母と妹が先に気仙沼でボランティア活動をしていたので、一緒に参加しました。そこでは田んぼの中に入ってしまったガラスの破片を取り除く作業をしました。
ボランティアをしているときは、地元の人と接する機会があまりなかったのですが、滞在中に「ボランティアの方もどうぞ」と地元の方向けに開催された夏祭りに誘っていただき行くことになったんです。そこで初めて地元の人とお話しすることができました。それまでは、メディアを通して見た津波の被害や避難所生活の様子しか知らなくて、実際に津波を経験した人は、その場所にいるだけでトラウマが蘇って苦しいんじゃないか、ここにいたくないんじゃないかって勝手に思い込んでいたんです。
でも、目の前にいる人達は、あんなに大変なことがあったのに、この先もずっとこの町で暮らしていくと、すでに前を見ている。そのときに初めて、今は瓦礫しかないここにもあそこにも、それぞれの暮らしがあったんだって、リアルに感じることができたんです。その暮らしを取り戻そうと前を向いている人たちに、底知れない力強さを感じました。
ちょうどその頃、私は仕事に疲れていて……。次々と新しいものを作ることに疑問を感じるようになっていて。自分が本当にやりたいことは何だろう? と考えたとき、何か新しいものをつくるといったハード面よりも、まちづくりやコミュニティづくりといったソフト面がやりたかったことに気づいたんです。
─── そこで移住を決意したんですか?
いいえ、はじめは1年くらいお手伝いができればと思っていました。せっかく行くのなら、その土地の春夏秋冬を体験したいなと思って。縁があって、南三陸観光協会の復興応援隊として働けることになり、設計事務所を辞めて、2012年10月にこちらに来ました。その頃の南三陸は、まだ志津川の近くにたくさんの車の残骸があるような状態でした。短期のボランティアに参加している人はいましたが、まだ移住者は少なかったですね。でも、すぐにこの町に魅了され、もう少し長くいたいな、と思いましたが、確信はありませんでした。
─── 観光協会ではどのような仕事をしていたのですか?
語り部ツアーのアテンドや、民泊の推進などをしていました。簡易宿泊所の申請に図面が必要なので、前職のスキルが役に立ちました。
まちづくりのプロジェクトにも参加させてもらい、祈念公園の在り方など、これからの町について一緒に考えました。けれど、町のあちこちを巡り、いろいろな人に話を聞いて行く中で、この町の抱えている本質的な問題が見えてきました。確かに震災によるダメージは大きかったけれど、それ以前に人口減少や少子高齢化が進み、空き家や耕作放棄地が増えるなど、さまざまな問題を抱えていたのです。そこが改善していかない限り、いくら町を再建しても未来にはつながらないと思いました。
じゃあ、どうしたらいいのかと考えてみても、答えは簡単に出ません。でも、この町にはこの町にしかない魅力がある。この町が好きだから、未来に続いて欲しい。だから、まずは自分がこの町に暮らしてみて、この町でできることをやってみようと思ったんです。