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海をイメージしたハンドメイドで好きなことを表現し、気仙沼を盛り上げたい

菅原理香

aqua labo kesennuma/ハンドメイド作家
宮城 気仙沼

何かしていないと泣いてしまうので、とにかく動いていました。

─── 理香さんは気仙沼のご出身ですが、震災のときはどうしていたんですか

わが家は津波の届かない場所に住んでいたので、家族4人無事でした。でも、当時の夫の実家は全壊し、義理の家族が3人犠牲になりました。一時、一緒に暮らしていたこともあったので、義理の家族ではあるけれど、自分の家族を失ったような気持ちでした。じっとしていると泣いてしまうので、とにかく動いていたかった。それで、自分なりに物資の支援をすることにしたのです。

─── どうやって始めたのですか?

被災した方に足りないものを聞いて、食器や衣類や生理用品などそのときに必要とされていたものをネットに書き込んで、全国から送ってもらいました。私の実家は魚屋なのですが、店の前を借りて届いた物資を並べ、必要な人に配りました。物資は自分の予想を超えてどんどん届き、次第に仕分けが追いつかなくなってきて。でも、自分で勝手に始めたことだし、あの頃はみんなが大変だったから、「手伝って」とは言えなかったですね。そんな状態を見るに見かねて、他県から手伝いに来てくれる方もいました。

─── どのくらいの期間やっていたのですか?

4月から8月までやっていました。その後、仕事に就くことになって。実は私、20歳で結婚しているんですよ。早くに2人の子どもを持ち、震災があるまではずっと専業主婦だったんです。ところが、震災で夫の職場も流されてしまい、夫婦二人とも仕事をしていない状況になってしまって。そろそろ仕事をしなきゃと思っていたときに、一般社団法人気仙沼復興協会で職員を募集していたので、そこで働くことになりました。

───  復興協会ではどんな仕事をされていたのですか?

復興協会の仕事は、瓦礫の撤去作業や、津波で流されてしまった写真の清掃、93か所ある仮設住宅の見守りなどいろいろありましたが、私は仮設住宅に暮らすお年寄りの傾聴を担当することになりました。お茶を飲みながら、折り紙や手芸をしたり、お話を聞いたりするといった感じです。

一年ちょっと過ぎた頃でしたかね。生活がだいぶ落ち着いてきて、震災のときに支援物資の手伝いをしてくれた方たちに何かお礼をしたいなと思って、気仙沼らしいモノを探してみたんです。ところが、これというものが見つからなくて。だったら、自分で何か作ろうかなと。せっかくなら、気仙沼らしさが伝わるものがいいかなと思って、ビン玉を使って浮き玉というガラス製の漁具をイメージしたキーホルダーを作ってみたんです。そしたら「これステキ!」「もっと欲しい!」って、すごく喜んでもらえて、思いのほか好評だったんです。

─── 嬉しいですね

その出来事がきっかけで、もともと手仕事は好きだし、自分の好きなことを仕事にできたらいいな、って夢はどんどん膨らんでいきました。それからコツコツと作品を作り続けました。一つこだわったのは、気仙沼らしさが伝わるものを作ることです。気仙沼の良さってやっぱり海なんですよ。津波で多くのものを失ってしまったけれど、子どもの頃からずっと見てきた、港に船がずらりと並ぶ気仙沼の風景が大好きなんですよね。

─── 理香さんのアクセサリーのモチーフも海をイメージしたものが多いですね。

浮き玉は漁網を浮かせる目的や目印として使われるものです。「沈まない」「浮かび上がる」というところが、震災後の気仙沼を表しているように思えて。その他にサメの歯を樹脂で閉じ込めたキーホルダーやブックマーカーがあるのですが、気仙沼はフカヒレ生産日本一の町なんですよね。抜けてもすぐに生えかわるサメの歯は“再生”の象徴として、昔から漁師達の間でお守りにされてきたと聞いて、気仙沼らしくていいなと思い取り入れることにしました。

そして、2013年に「aqua labo kesennuma」という名前でブランドを立ち上げ、本格始動することにしたのです。

─── 思い切って行動に出たのですね

震災前だったら、ここまで行動を起こせなかったと思うんです。高校を卒業して、やりたいことが見つからないまま、子どもができて結婚して。家の中で子育てをしながら、私はずっとこうやって生きていくのだろうな、って漠然と思っていました。だけど、震災で多くのものを失って、人生はいつ何が起こるか分からないから、後悔のないように生きたいと思うようになった。うまくいくかどうかは分からないけど、まずはやってみようって。

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