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自分の体、自分の人生は自分で決めるもの。女性が前向きに生きられるように

大森美和

看護師・助産師/にじのわ助産院/NPO法人プロジェクトK 代表
宮城 気仙沼

難民キャンプで見た、女性の置かれている現実。母子保健についてもっと学びたいと思った。

─── 美和さんは震災後、気仙沼に移住するまで国外内いろいろなところで過ごされていますね。そもそも看護師を目指したいと思ったきっかけは?

実は、とても安易な考えなんですが、海外で働きたくて看護師になりました。子どもの頃、『兼高かおる 世界の旅』というテレビ番組が好きで、海外に興味を持つようになり、将来は海外で働きたいと思うようになりまして。中学生のときに、青年海外協力隊の存在を知り、国からお金がもらえて、海外で仕事ができるなんて、なんていい制度なんだろうと。私が目指すものは、これだ! と思ったんですね。はじめは、先生にでもなろうかなと思っていたのですが、高校2年生のときに、ルワンダの内戦ドキュメンタリーの番組で、国境なき医師団の活動が紹介されていて、それを見て「海外ではそもそも生きることが大変で、教育よりもまずは医療が重要なんだ」と衝撃を受けて。そこから進路を文系から理系に変更し、看護師を目指しました。

兵庫県の看護大学を卒業した後は、東京の大学病院に勤めました。青年海外協力隊に応募するには、最低3年間の実務経験が必要だったからです。協力隊の試験は春と秋の年2回行われていましたが、万が一合格した場合、年度途中で辞めることになると職場に迷惑がかかるので、年1回秋の試験だけ挑戦することにしました。ところが、看護師採用は倍率が高く、看護師3年目、4年目に受けてみたけれど、不合格。このままでは夢を叶えられないかも……と心配になり、思い切って病院勤務を辞めて、NPOの訪問看護ステーションで非常勤看護師として仕事をしながら、年2回の試験にチャレンジすることにしたんです。

─── 本腰を入れたというわけですね。

ところが、ここで思わぬチャンスが訪れるんです。大学病院で働いているときからボランティアで関わっていた国際NGO「シェア=国際保健協力市民の会(以下シェア)」は、在日外国人の健康相談などもしていたのですが、そこにボランティアで来ていた医師が、「ヨルダンで働いてくれる医師を探している」と言っていたのを聞いて、「医師を探しているなら、看護師も必要なはず!」と手を挙げてみたら、看護師として従事できることになったのです。協力隊を目指していたけれど、思わぬ形で、海外で働けるようになりました。

─── そこではどのようなお仕事をされていたのですか?

ヨルダンとイラクの国境地帯にある難民キャンプで、医療活動を行っていました。フセイン政権崩壊後、イラクから追い出されたクルド人やパレスチナ人がそこで暮らしていました。キャンプには女性も多くいました。イスラムの女性は自由が制限されている上に、暑い砂漠でのテント生活という過酷な環境のストレスで不正出血をしたり、流産したりする人もいました。こうした現実を目の当たりにして、女性が自分の体を自分で守れるような世界にしたいと強く感じ、母子保健について学びたいと思うようになりました。ヨルダンには4か月しかいられず、自分の中ではやり残していることがいっぱいありました。次に海外で働く機会があれば、もっと知識をつけて、年単位で行きたいと思いましたね。

帰国後、埼玉県の助産師学校に入学し、助産師として葛飾赤十字産院で3年実務を経験した後、再び青年海外協力隊の試験にチャレンジしました。看護師と比べて、助産師は倍率が低く、ここでようやく合格! 中学生の頃から抱いていた夢が叶いました。

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