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ママと子どもに寄り添うことが気仙沼の未来につながると信じ、今を一生懸命に
半沢裕子
一般社団法人おりがみ(カフェHATA/出張託児/こども食堂)代表
宮城 気仙沼
震災後、こもりきりだった日々。「絵本カフェ」との出会いが、私を変えた
─── 気仙沼で子育て中のママたちのために活動されている裕子さんですが、生まれも育ちも気仙沼なんですね。気仙沼から出てみたいと思ったことはありましたか?
中学生の時に、祖父の介護がきっかけで介護職に興味を持ち、高校生のときに介護の勉強で仙台を行き来することがありました。でも、気仙沼を出たいと思ったことはなかったですね。卒業後は10年間、気仙沼の介護施設で働いていました。
震災に遭ったのは、長女を産んだ半年後の育休中のときでした。わが家は、TVのニュースでもたくさん映像が流れたあの「共徳丸」が乗り上げた場所、鹿折(ししおり)という地区にありました。町一面が火の海になるなど被害が大きかったエリアでしたが、わが家は無事でした。けれど、同居していた私の母が外出中に命を落としてしまったのです……。
震災後、私の生活は一変しました。母が亡くなったことで、家のことを一手にしなければいけなくなり、仕事に復帰することができなくなりました。震災当時、生後6か月だった長女は、生まれつき心臓に疾患があり、ただでさえ初めての子育てで不安なのに、さらに心配な気持ちでした。だけど、一番頼りにしていた母はもうこの世にいない……。毎日泣きたい気持ちでしたが、多くの人の命が失われたこの町では、生きていること自体が奇跡なのだと思い、家にこもって頑張っていました。
─── そうだったんですね。その後、何がきっかけで状況が変わったのでしょうか?
二人目ができてからですかね。震災から3年が経ち、だんだん子育てにも慣れてきて、外に出て行けるようになり、同じような子育て中のママたちと知り合うようになったんです。その中の一人が、「ここでスタッフを募集しているんだけど、やってみない?」と誘ってくれたのが、「絵本カフェ架け橋」でした。
震災後、気仙沼には全国からたくさんの人がボランティアに来てくれました。中にはこの町が気に入って、移住する人もいました。気仙沼に「架け橋」というゲストハウスがあるのですが、震災ボランティアで来た大学生が、そのまま移住して、外からやって来る人のための交流の場となる宿を作ったんです。そのチェックアウトからチェックインまでの空き時間に、子育て中のママたちが子どもを連れて気軽に利用できるカフェを、同じく子連れママたちをスタッフとして雇用して始めてみようということになって、スタッフを募集していたのです。募集事項には、「子連れで働ける」「お互い助け合える場所」と書いてあって、「これなら私にもできる! やってみたい!」って飛びつきました。
─── そこから絵本カフェスタッフとしての生活が始まるのですね。
絵本カフェはカフェを利用するママたちだけではなく、そこで働くママたちにも優しい場所でした。介護職をしていたときは、人手不足ということもあり、自分が休むと代わりがいなくて、なかなか休めずにいました。だけど、小さな子どもってしょっちゅう体調を崩すんですよ。「絵本カフェ架け橋」で働くママたちは、それが普通のことだと分かっているから、ここでは子どもの体調が悪いときは、LINE一通送っておけばOKで、代わりに入れる人が入るというスタンスで、とてもフレキシブル。無理なく働けるというのが、とても良かったんです。
子ども達にとっても、居心地のいい場所だったと思いますよ。子ども同士でも遊べるし、そこにいるみんながお母さんになってくれる。うちの子にとって、お母さんは私だけではないんです。今はもうだいぶ大きくなりましたが、今でも当時のスタッフをお母さんのように慕っています。ときには、ゲストハウスのスタッフやお客さんもが遊んでくれます。
─── たくさんの大人に見守られながら育つ。理想的ですね。カフェを利用するのは、どんな方たちだったんですか?
自分たちと同じように子育て中のママたちでした。絵本カフェは「子連れママが運営する子連れママと子どものためのカフェ」。普通、子連れで外食に行くと、子どもが動き回ったり、騒いだりして、周りの目が気になって、肩身が狭いんですよ。でも、子どもに動くな、騒ぐなって言ったところで無理なんですよね。じゃあ、子育て中のママは、外食を我慢しなければいけないのかって話になると、それは違うと思うんです。だから、せめてここでは、ママたちにラクしてもらいたいと思って。走り回る子どもがいても大丈夫。みんなが「お互い様だよね」と言える空間を目指しました。