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「あの時、しんどかったよね」背負った過去を手放して、自分らしく生きる
鎌田千瑛美
コミュニティ・コーディネーター/パートナーシップ・コンサルタント
福島×鎌倉
大きな挫折。故郷がまたこぼれ落ちるような気持ちになった
─── 千瑛美さん自身も福島県出身。東北の方が持つ、思いやりのメンタリティをお持ちだと思います。同時に自ら発信して行動する強さがあります。その軸はどこにあると思いますか?
昔から父親が厳しく絶対的な存在で、そこに反発していたんです。親に決められた道じゃなく、自分の人生を生きると決めて、随分と遠回りしながらも、自分自身で考えて、選択をしてきました。震災が起こったことによって、改めて気付かされた部分もたくさんあります。
震災があって、原発事故があっても、誰かが守ってくれるわけじゃない。たとえ政府が安全だと言っても、結局のところは誰にも分からない。絶対的な正解もないですよね。
やっぱり、自分の本音に逃げずに、自分の人生に向き合わないといけないんだと突きつけられた気がしました。
─── 福島だけでなく、水俣にも足を運んでいますよね?
そうですね。ご縁があって、2012年にはじめて水俣を訪れました。まさに水俣の歴史って福島と共通する部分があって。現在もまだ終焉していない水俣病が訴える社会問題の構造を学びました。加害組織と被害者の対立構造、地域の中でも分断が生じてしまったこと、そこからどう地域がコミュニティを再生していくか、など……。そこに暮らす人々と出逢い、じっくり語り合うなかで得た学びが、私にとっては本当に深かった。福島の問題をきっかけに、さまざまな社会課題にも目を向けて、同世代の人たちとともに学び合えたことは、とても大きな糧になりました。
─── 現在は、再び関東に住まれています。福島を離れられたのは何か理由があったのですか?
震災から3年が経ち、中間支援団体の仕事を辞め、次は古民家再生の活動に関わりました。復興とか支援というだけでなく、福島で当たり前のような暮らしの日常を日々見つめ直すことが大切だと思ったんです。古民家再生をしながら、次世代の人たちが学び合う体験プログラムを企画運営していました。
でも実は、ここで大きな挫折があって……。
古民家の再生が間近のタイミングで、活動の継続が難しくなってしまったんです。原因は、組織内での意見の違いによる部分が大きくて……。お互いの気持ちを尊重してどんなに話し合っても、やっぱりうまく実現できないこともあるんだ、と大きな絶望を味わいました。
─── 実際、対話だけで全てがスムーズに解決というのは難しいですよね……。
そうですね。この時、また故郷がこぼれ落ちてしまったような、振り出しに戻ったような気持ちでした。
数か月は鬱状態で何もできず、実家に引きこもっていました。その後、父のすすめで学校の家庭科教員の仕事に就くことになって。学校で仕事をすることは、とてもやりがいはあったのですが、反発していた父のおかげで仕事に就いたことで、結局、自分のやりたかったことと違う道に戻ってしまったような気持ちもあり、しばらくは落ち込んでもいました。
ただ、成り行きでついたとは言え、教員としての仕事を通して、高校生たちとどう向き合うか、大人としてどう次世代の人に向き合いたいかという学びはたくさんあって。それは大切な時間でした。
2年後に結婚をしたのですが、それを機に鎌倉に引っ越すことになったんです。
正直、あの頃は、福島を一旦離れられたことに、言い訳ができてホッとしている部分があったかもしれません。