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北海道でのつながりが、自分の故郷ですすむべき道を決めた

柏崎未来

一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校
岩手 釜石

偶然手に取った一冊の本が、運命的な出会いに

─── 今日はよろしくお願い致します。未来さん…と言うか、いつも愛称のジョイさんって呼んでますが。出身は、釜石のどちらなんですか?

鵜住居の隣の片岸という、釜石の一番北の町です。釜石で小中高を過ごした後、北海道の大学に行って、健康プランニング学科というところで、自然体験活動分野を専門的に勉強していました。

─── 自然体験にもともと興味があったのですか?

高校時代に進路選択を考えたときに、私はOLとかになって、室内でずっとパソコンをカタカタする仕事は嫌だなっていう思いしかなくて。いろいろ図書館で本を読み漁ったときに、野外教育入門という本に出会い、「これだ! 面白い!」ってなったんです。

それまでは、家族でキャンプとかやったこともないし、小学生のときに自然の家に行ってする運動ぐらいしか体験したことがなくて。体を動かす仕事がしたいっていう、ざっくりな考えしかなかったんですけど、その本に出会って、「この世界に私は行きたい!」って思うようになりました。

─── 大学卒業後も、そのまま北海道に?

釜石に戻ってこようと思っていたんですけど、北海道の方が自然学校とか野外教育は東北よりも盛んなイメージがあったし、北海道のフィールドが好きだったから、北海道の自然学校とかで働きたいなって思っていました。そしたら、たまたま黒松内ぶなの森自然学校というところで、研修生を募集していることをゼミの先生に教えていただいて、飛び込んでみました。黒松内町っていう、当時は人口3200人ぐらいの町なんですけど、ぶな林のガイドや子どもの自然体験活動について勉強していました。

─── その頃は、釜石に戻りたいと思っていたんですか?

田舎が嫌だと思って釜石を出ていき、通った大学が札幌に近くて、「都会は最高!」と、初めはなったんですけど、段々飽きてきて。黒松内で活動していて、地域のおじいちゃんがたくさん山菜を持ってきてくれたり、山に連れていってもらったりした時に、釜石にもこういうつながりがあったな、と思い出したりしました。

自然の見方やガイドを勉強していたので、いろんなお花や木を見たりしていたんですけど、今まではなんとなく見ていた景色が、実は地元にもあるということに気づいて、釜石に戻りたいと思いながら、黒松内で勉強していました。その自然学校の母体が「NPO法人ねおす」という団体で、そこで5年ぐらいは働きたかったんですけど、働いて4年目に入るときに震災が起きて、釜石に戻ってきました。

─── 震災をきっかけに、釜石に戻ろうと思ったんですか?

はじめは釜石とか東北の状況がわからなかったから、仕事を辞めて戻る選択というよりは、ちょっと様子を見に行く感じでした。震災が起きた2日後の、3月13日には釜石に戻って、これは(復興に)長くかかるなって思ったし、家族の近くにいたいと思って。

ねおすの人たちも、私の故郷だからということで2年間支援すると決めてくれて、 ねおすの現地スタッフという形で、仕事として釜石の支援活動をさせてもらいました。

私の地元が鵜住居地区といわれるところで、宝来館というホテルがある辺りのいわゆる鵜住居川流域で支援活動をするって決めて動いていたら、伊藤さんという人が、宝来館を拠点に人をつないで、ボランティアさんを送り込むようなことをしていて。

私はただ地元の人間っていうだけで、高校を出て人のつながりもなかったから、ネットワークがあった伊藤さんと協力し始めたんです。当初伊藤さんは宝来館のスタッフだったんですけど、NPO法人ねおすのスタッフとして一緒に働くようになりました。

北海道の人たちは2年で戻ってしまうし、2年で支援活動は終わらない。けど、まだまだやりたいこともあって、ねおすのサポートを受けながら、伊藤さんと一緒に2012年の4月に「三陸ひとつなぎ自然学校(略称:さんつな)」を立ち上げました。地元で私たちが活動できる体制をつくった感じですね。

─── NPO法人ねおすの支援が、団体が立ちあがる大きなきっかけだったんですね。

そうなんです。ねおすは、黒松内ぶなの森自然学校や、北海道各地に自然学校の拠点を持っていて、各地にいる人たちが順番に釜石に支援に来てくれたり、子どもの居場所づくりのサポートをしてくれていて。

寄付を集めてくれたり、人の支援もしてくれました。なので私たちのところに来るボランティアさんは、北海道の人がすごく多かったんです。ねおすの事務局長がねおすを辞めて、釜石の復興支援団体に入隊してくれたり、色々とつながりも増えていきました。

─── 団体が立ち上がってからは、どんなことをしてたんですか?

2013年の5月に法人化をした最初は、支援活動を引き続きやっていて、やれることは何でもやっていました。瓦礫撤去もしていたし、仮設住宅の方で放課後子ども教室をやり始めたところにボランティアさんに行ってもらったりとか、ボランティアさんのコーディネートをしていましたね。

震災2年目ぐらいからは、関東から支援に来る人も割と増えました。震災のフェーズに合わせて、私たちも必要とされることを、形を変えながらやってきて。2、3年ぐらい活動してきて、少し落ち着いてきた感じがあったんですよね。皆さん仮設住宅で過ごせるようになり、私たちが瓦礫撤去とかをする機会もなくなってきたときに、もう一回「さんつな」のメンバーで、どういう方向性で活動していくかを話し合いました。そこから少しずつ形を変えながら、今まで活動をしてきた感じです。

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