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あの日からずっと、命の奥にふれ続けている
藤城 光
アーティスト、デザイナー/未来会議事務局
福島 いわき
海があるこの土地が、創作活動の後押しに
─── 光さんは茨城の出身なんですね、どんな子ども時代を過ごしていましたか?
茨城の田舎で生まれ育ちました。自然と触れ合うことで、人とだけじゃなく、例えば樹木とか、視覚的には見えないものとかと話をする感覚のようなものをもっていた子どもだったように思います。大学では文化人類学を勉強していたんですが、大学時代に、イギリス、フランス、ギリシャ、エジプトなど海外に何度か行く機会があり、歴史や文化を残すという意識をもった街の姿に刺激をうけ、その一方で、「自分は何をしていくか」に向き合ってこなかったことを実感しました。
─── いつから具体的にアートやデザインに興味をもったんですか?
大学最後の年になってからですね。何かをつくりだすことがやりたいなと思うようになったんです。姉がイラストレーターとしてすでに仕事をしていたので、そこから自分でもデザインの勉強をし始めました。その時は特にスキルもなかったんですが、自分で絵を描いたスケッチを持って、制作会社に面接に行ったら、デザイン担当として採用されたんです。
─── スケッチブックの持ち込み……ガッツがありますね! アーティストとして表現をするようになったのはいつから?
映画やライブが好きで東京の生活を満喫していた一方で、会社員だと自分の時間がもてないと思い始めました。音楽関係の方とたまたまつながって、Web制作の仕事をいただいているうちに、Webデザイナーとして独立する流れとなったのですが、デザインの仕事でも解消されない思いが残ってしまって。「自分」として生きていくことから、どこか遠のいているように感じて、自分なりの思いを形にすることに向き合い始めたんですね。それから、表現なのかどうかも分からないまま、遊び感覚で作品を創りだすようなことを始めました。
本格的に創作活動を人生の中心に据えるようになったのは、結婚して、2010年にいわき市に移り住んでからですかね。
─── 結婚を機に、いわき市に移り住んだんですね。
結婚してすぐは、東京での仕事スタイルを変えずにいたので、拠点を東京に持ったまま別居婚をしていました。お互いに行き来しながら、2年くらいは続けていたんですが、そのうち体を壊してしまって……。二拠点での生活に多少無理していた部分があって、体に負荷がかかりすぎてしまったんですね。
そこで、いわき市に引っ越しを決めたのですが、引っ越した当初は、正直「ここでやっていけるのかな」という思いの方が強かったんです。まったく環境も違い、友達もいない。基本的に仕事は家で完結するためいわきで人と知り合う機会も得られず、東京が恋しくてホームシックになり、不安のほうが大きかったな。
でも、いわきで出会った海がすごく美しかったんですよ。それで「海があるから大丈夫」と思えた。それが最初のきっかけになって、これまでの生活と切り離された環境のもと、そもそも自分がやりたかったこと、表現のほうに自然と目がいくようになりました。海があって、森があって、土に触れられて、空気もよくて、水も美味しくて。日々、自然が身近にある環境の中に身を置けることがすごく良かったんですね。
─── 海があるから大丈夫。目の前に広がる自然が表現活動に導いてくれた、と。
人間は大地の一部だという感覚に自然に戻って行けました。子どものころにもっていた感覚を取り戻していくような……いわきという土地に来て自分自身の表現のテーマに気づけたように思います。
それから集中した制作時間を持つようになり、東京で個展を開催する機会を得たり、都内のシェアスタジオを借りるなど、表現を模索していた矢先の2011年3月に震災が起きました。