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よそ者だから見えるこの町の良さ。東松島の魅力を発信するのが私の役目
関口雅代
東松島市移住コーディネーター/グラフィックデザイナー/市民団体H×Imagine代表
宮城 東松島
「こっちに住んじゃいなよ」、町の人たちのひと押しが私の人生を変えた
─── 雅代さんは東京生まれ、東京育ちだそうですね。
はい、39歳まで東京に暮らしていました。絵が好きで、中学生から大学生までは油絵を描き続けていて。大学卒業後は、音楽業界でCDジャケットなどの制作に携わっていました。自分がデザインした作品がアーティストとファンの心をつなぎ愛されて残るという、素晴らしいお仕事でした。仕事は楽しかったけれど、ハードな職場で徹夜の毎日。始発まで仕事をして仮眠しに自宅に帰りまた出勤という生活を10年以上送っていました。身体は悲鳴を上げていたけれど、気づかないふりをしていたんです。そしたら、35歳のときに脳梗塞で倒れました。
幸い大事には至らず復帰することができましたが、しばらくしてから仕事を辞めることにしました。実は治療中に検査をする中で、脳梗塞の原因の一つに本態性血小板血症という難病を抱えていることがわかったんです。自分では疲れやすいということ以外にあまり症状を感じませんが、放っておくと血液がんなど別の病気を起こしやすいんですね。完治できる治療法は見つかっておらず、一生付き合っていかなきゃいけないんだなと。
─── そうだったんですか。仕事を辞めてからはどうしたんですか?
仕事を辞めてしばらくして、もうひとつ私の人生を大きく変えた出来事がありました。東日本大震災です。5月から遠野市のNPO法人遠野まごころネットの災害ボランティアに参加し、岩手県大槌町の仮設住宅の見守りや、傾聴の活動をしていました。その後、復旧から復興へとフェーズが変わっていく中で、『東北食べる通信』という東北6県の第一次産業を応援する情報誌の編集長に出会いました。その熱い思いに打たれて、イベントコーディネートを担当することになったんです。当時は、まだ東京に暮らしていたんですが、月2回のペースで東北の生産農家さんや漁師さんを取材したり、東京に招いて『東北食べる通信』読者と一緒に食材を使った料理を楽しむ会を企画したりしていました。いずれ生産者さんと読者の交流と信頼をベースにした直接取引が行われるCSA (Community Supported Agriculture 地域支援型農業)につなげたいと、食材を届けてくださる生産者の方の思いを深く知り、読者の第2の故郷を作れたらと思っていました。それが、東京に暮らす私ができる支援だと思いながら取り組んでいました。
そんな中で出会った宮城県・東松島市とはご縁が深くなり、町の事をとても好きになりました。「雅代さんってデザイナーなんだよね、こっちでその仕事をやってもらえたらいいのに」と東松島市役所の方から声をかけてもらい、「本業で東北の力になれるなんて光栄すぎる」と思い、「やりたいです!」と(笑)。それが、地域おこし協力隊のお仕事だったんです。また、まわりの女性の方々からも「こっちに住んじゃいなよ」「東松島は楽しいよ」って言ってもらえて、こんなふうに引き留めてくれる人がいることが嬉しくて、そのまま東松島に暮らすことになりました。
─── 熱烈なラブコールがあったんですね。地域おこし協力隊のお仕事ではどんなことをしたんですか?
はじめのうちは、市のポスターや、地元の農家さんや漁師さんたちの生産物のパッケージデザインなど、これまでも行ってきた制作を中心に活動してきました。そのうちに、復興政策課に席を置いていたこともあって、地域で活動する市民の方々とたくさん知り合うようになり、刺激を受けるようになって。すると次第に、地域を盛り上げるために何かやってみたいという気持ちがムクムクと膨らんでいきました。
─── 市役所に席を置いていたんですね。
はい。市民団体「H×Imagine」(ヒマジン)を立ち上げたのもその頃です。実は、町を良くしたいという思いを持つ若手の役場職員たちが、一市民として活動する2枚目の名刺が欲しいと話していて。民間の私が代表になって、市民団体を立ち上げよう! ということになったんです。何から始めようかと相談するうち、町の未来を語るのに、今地域に落ちているゴミを無視することはできないよねという話になり、ゴミを拾って綺麗にするなら、やはり野蒜海岸だろうと。市民に愛されていた場所だったんですが、津波の被害も大きく、震災のあとは閑散としていました。
私が東松島に残りたいと思った理由の一つに、海岸の景色がとても好きで、この風景に癒やされていたんですね。この素晴らしい景色をもっとたくさんの人に見てもらいたいし、津波以来、海で遊べずにいる地元の子どもたちに海の魅力を知ってもらいたい。そんな気持ちから月に1回、地域の人たちに呼びかけをしてビーチクリーンを始めることにしたんです。最初は15人ほどからスタートし、徐々に参加人数が増えていき、今は30人くらいいるかな。今年で6年目になり、実施回数はついに66回を超えました。
─── 6年も! 継続の秘訣は何なのでしょう?
地域のみなさんと一緒に楽しむことですかね。東松島は小さな市なので、市民の声が行政に届きやすいんですよ。「H×Imagine」の活動も「こんなことをやってみたい」と声を上げてみたら、「じゃあ、やってみたら」と背中を押してもらえて。その後も、「バーババー」という女性中心の市民団体を作って月浜ビーチで一夜限りのバーをやってみたり、夜の奥松島縄文村でナイトミュージアムイベントをやってみたり。奥松島の宮戸島にある月浜は以前、地元の人が通う飲み屋街があって、夜には賑わっていたのですが、震災後は静かになってしまったんですね。「あの頃の賑わいが懐かしいなぁ〜」と、地元の人が話しているのを聞いて、だったら復活させましょうよ! と。「バーババー」は「婆(ばばあ)」をもじったもので、老若男女誰でも気軽に参加して欲しいという思いを込めてつけました。知り合いの女性たちに「一緒にやらない?」と声をかけてみると、みんなが「面白そう!」と乗ってくれて。
東松島のもう一つの魅力は、女性がとても元気で、輝いていることだと思うんです。いざイベントをやるとなったら、「演出はこんな感じにしよう!」「料理は地元の食材を使おう!」など次々とアイデアを出してくれて、当日は予想をはるかに超えた参加者数となり大盛況に。言い出しっぺは私ですが、仲間の支えがなければ、実現できなかったと思います。「バーババー」実行委員の数がどんどん増えているんですよ。地域と深く関わるようになればなるほど、東松島がますます好きになっていきました。