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岩手に引き寄せられる絶妙なタイミング、コーディネーターは天職かも?

高田真理子

いわて連携復興センター 地域コーディネーター
岩手 花巻

フリーターを経て、まさかの流れで、帰るはずがないと思っていた岩手に

─── 真理子さんはUターン組ですよね。岩手に戻ってきたのはどんな経緯でした?

花巻市で育ち、高校を出て、憧れの東京に行けるーという感じで上京しました。大学を卒業して、東京の不動産会社に就職して。岩手に帰る気持ちなんてさらさらなくて、これからずっと東京で暮らしていくんだって疑わずにいました。そのためにお金が必要だから働かなくちゃと。

何がしたいなんて考えてなかったですね。地元が嫌とかではなく、東京が楽しくて、岩手のプラスより東京のプラスが優ってた。周りも地元を出る友達が多かったですし、私、震災がなかったらまだ東京にいたと思います。都会の生活に慣れちゃうと、多分、何か特別な事情がない限りは「えっ、不便じゃん、なんで地元に戻るの?」ってなると思うんですよね。

ところが、就職して社会人3年目が終わろうとした時に、震災があったんです。

─── そのとき、真理子さんはどこにいたんですか?

職場の吉祥寺で揺れを感じました。すごい揺れなので関東だと思いました。そしたらラジオで岩手、宮城、みたいなこと言うのが聞こえてきて。家に帰ってすぐテレビをつけて、あの状況を見て言葉を失ったというか……。

地元の花巻は内陸で、沿岸部に知人も少なかったんですが、あの時ばかりは不思議と「岩手がヤバい」、みたいな受け取り方をしたんですよね。なんの愛着もなかったはずなのに、ええーって。その衝撃からしばらく抜け出せませんでした。

─── そうだったんですね。それから、どうしたんですか?

それが……。働いていた不動産会社が割とブラック系というか、終電逃すのも休日返上も当然みたいな会社で。社長も、こんな大災害を前に俺らにできることはない、働いて経済を回すことで貢献するぞ、みたいなスタンスだったんです。確かに一人でどうしようと思っても何もできない、私も働くしかないと思ったものの、やっぱり、気持ちを切り替えられずにいました。

このままこの働き方をしていると、例えばボランティアとか、岩手のために何かって思った時に何もできないなと。一旦この仕事をやめて、フリーターになってみようと思ったんですよ。時間ができて、何かできるかもしれないと思って。

─── フリーターに。それが、いつ頃のことですか?

2011年の10月に不動産会社を辞めて、晴れてフリーター生活に入りました。でも、甘かった。東京って生きてるだけでお金かかるんですよ、家賃払わなくちゃいけないからとりあえずバイトしようと、スーパーマーケットの青果担当に入りました。で、ちょっと考えればわかることなんですけど、バイトになると時給換算になって、休んだら休んだ分収入が減るわけです。結果、やっぱりなかなか動けないっていう謎の状態になっちゃったんですよね。

─── なんと。その状態から何がきっかけで動き出したんですか?

2012年のGWに震災後初めて実家に帰省しました。で、その頃、花巻の高橋博之さんっていう、のちに「東北食べる通信」や、「ポケットマルシェ」を始めた方のブログが面白いよって友達に聞いて読んでいたんです。その博之さんが復興支援活動として「どうにかするぞ」ってプリントした前掛けを売っていると知り、アポを取って買いに行ったんですよ。

─── え、直接本人から買うんですか?

そうなんです。身近というか、面識はないけれど同じ高校の先輩らしいから、この人から買おうと思って。で、博之さんが購入者の写真を撮ってFacebookにあげるということをしていて、私も見事、前掛けをつけた写真が掲載されたんです。

そしたら、投稿を見た人からすぐ「この人誰?」って博之さんに電話があったそうで。博之さんから、話したいって奴がいるから一度会ってみてくれねえかと言われたので、いいですよと。翌々日にその、北上市のNPO法人いわてNPO―NETサポートの菊池広人さんに会いに行きました。

正直、広人さんがNPOについて話すこと、よくわかりませんでした。でも、岩手に仕事があって、それは自分がずっとモヤモヤしていた沿岸での活動で、自分が必要とされているっていうことは理解しました。このチャンスにこのタイミングで帰らなければ、私は多分一生岩手に帰らないんだろうなとその時思って。

─── なんだか、いきなり展開が早くなってきましたね、流れに押されましたか?

押されたんでしょうかね。広人さん、なんだかすごい嗅覚があるんです。モヤモヤしてそうだなとか、そういうの見つけちゃうんです。見つかっちゃったんですよ(笑)。

悩んでもしょうがないと即決しました。会った次の日に、「岩手に帰ります、お世話になります」って連絡して。そこからバタバタ東京に戻って、バイト先に挨拶して。翌月の6月にはもう、沿岸の大槌町での活動を始めていました。

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