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足元の暮らしを見つめて、楽しく日常を送ることを大切にできたら

小池晶子

デザイナー/クラフト作家/如春荘の会 副代表
福島

ネームバリューに頼らず、地元にいる自分たちでローカルを面白く

─── 晶子さんはさんは「手作業」という屋号でデザインの活動をされているんですね?

はい、会場装飾、立体物、グラフィックデザインなど、手作業でできることすべてのデザインを描くのですが、自分では、住んでいる地域を面白くするための活動をしていると思っています。福島ではよく熊が出るので、熊をアイコンにした木彫りのブローチなどの小物を製作するクラフト作家としての活動もしています。

─── 地域を面白くするためのデザインなんですね。デザインの仕事にはいつから興味があったんですか?

子どもの頃から美術が好きで、高校生くらいから好き勝手な立体物をつくりたいと思うようになっていました。大学に進学するころには、違う世界に入れる感覚をダイレクトに体験できるのが面白いと思い空間美術に興味がありました。短大で空間デザインを学んだのち、現代美術をやりたくて京都の大学に編入し、空間を構成する要素として立体造形を専攻しました。

─── 小池さんが高校生の頃に捉えていた世界観って、独特というか……面白いですよね。周囲の人たちとは違った感覚をもっていた感じですか?

高校は普通科に入っていたんですけど、周りの友人たちとは話が全く合わないことが多かったです(苦笑)。家族もよく理解できなかったと思います……高校の時はそのせいでしんどくて、違う価値観を認め合えず一人で過ごすようになった時期もありました。そのときに自分と向き合うなかで、これをやると楽しいってとことん夢中になれるものを見つけたいと自分なりの作品を作り始めてから、美術系に進学しようって思うようになりました。

─── 美大を卒業してからはどうしたんですか?

美術を続けたいと思っていたのですが、制作する環境の作り方やどうやって仕事につなげたらいいのかがわからない感じでした。大学を卒業しても仕事が決まらず、東京の友達の家に居候して過ごしていました。たまたま仲良くなったアンティーク雑貨のお店の人と世間話をしていたら、映画の中でレコードの絵を描く人を探していて、美術装飾の仕事を紹介してもらえることになり。それがきっかけで、見習いのような感じで1年仕事したのち3年間ほどその会社に所属しました。その後、フリーランスとして7年ほど東京で仕事を続けました。

─── 美術装飾のお仕事では、映画のセットの装飾や小道具の制作などを担当されたと伺いました。

 映画の仕事では、「ALWAYS 三丁目の夕日」のセット制作を担当し、昭和の古き良き時代を再現することの面白さを感じました。言葉で伝えられない感覚が、空間を通すことで伝えられたらなって。ただその頃は仕事で忙殺されていて、自分の作品作りを続けられず個人としての表現作品をつくることがしたいなって思うようになっていきました。

─── 個人としての表現作品をつくる……。

たとえば大学時代には、タンスがビルの形をしていたら面白いんじゃないか、とか。部屋の中に建物を作れば、部屋のスケールが変わって、自分が大きくなった気分になれるなーとか。それを作品で表現して、自分が思い描く空間が現実になったところを見てもらうことで、自分自身が面白さを感じたいし、他者にも何を感じるかを体験してもらえたらなって。

頼まれた仕事はクライアントとテーマがかっちりしているけれど、作品づくりは自分が主軸なので、自由に自分軸でものごとを考えたいという気持ちもあったと思います。

─── 作品をつくるのが本当に好きなんですね。

みたいものがみえる瞬間をつくることが好きです。そのためには細かいことの積み重ねが必要で、とても根気がいる。それでもみえてくる姿があると、その瞬間が楽しくて、面倒なことも耐えられますね。ただ一方で、都会で作品を展示する場合、場所を確保すること自体が難しかったり、作品づくりが思うようにできないこともありましたが……。

─── 東京で仕事をしていた小池さんが、福島に帰ってきたのは、やはり東日本大震災があったから、でしょうか?

そうですね。2011年から「プロジェクトFUKUSHIMA!」という、表現アートを通して福島を発信する活動に東京から会場美術で参加したことがきっかけでした。映画の制作に関わる仕事しかしてこなかったので、イベントに関わってみて、参加していた人たちとのつながりが楽しくって。そのつながりから、音楽フェスなんかも主催側スタッフになり、イメージを膨らませながらコンセプトに合った空間をつくることで、自分の力を福島で役立てられたらいいなあと思うようになりました。東北各地で開催されていたボランティア活動に参加したりするうちに、地元で面白い活動をしている人たちとも知り合い、34歳のときに地元の福島市に戻ってくる決心をしました。

─── 戻ってきてからは、どんな活動をしていたんですか?

「プロジェクトFUKUSHIMA!」のなかで、福島からの文化発信イベントを各地で開催していました。原発事故によってマイナスのイメージが先行してしまった福島から、ポジティブな発信をすることを目指して、全国から届いた布をつなぎ合わせ福島大風呂敷という巨大なパッチワークを製作したりしました。ボランティアを集めて、人と人とがつながっていく形づくりからやったイベント自体はとっても楽しかったのですが、著名な方々にも応援してもらうなかで、ネームバリューを頼ることに少し違和感を感じるようになって……。地元にいる自分たちでローカルを面白くできるようになりたいと思うようになりました。イベント的な発信ではなく、足元の暮らしを見つめて、楽しく日常を送ることを大切にできたらなって。

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