013
市職員からパン職人に転身 自分の作ったパンで喜ぶ人の顔を見るのが嬉しい
水野いずみ
パン工房 いずみぱん
宮城・気仙沼
家族も、同僚も、自分達の家も、震災ですべてをなくした
─── いずみさんは陸前高田市のご出身だそうですね。
生まれも育ちも陸前高田です。大学進学で4年間、富山で過ごしましたが、卒業後に再び陸前高田に戻ってきました。大学では考古学を学んでいて、文化財の発掘調査の仕事に就きたいと思っていたのですが、この分野で正職員になるのはとても狭き門でして、なれたとしても嘱託職員がほとんど。ちょうどそのときに、陸前高田市の教育委員会で嘱託職員を募集していたので、まずはそこの事務職に就きました。嘱託社員の給料で一人暮らしは厳しいかなと思い、実家に戻ったという甘い考えでした。1年後に試験を受けて、正職員になりました。
─── おお、良いタイミングでしたね。
その後、市内にある博物館の学芸員の仕事に就くチャンスが回ってきて、やっと自分がやりたいことができる! と喜んだのもつかの間、仕事の大変さに音を上げてしまったのです。というのも、その博物館は、東北の博物館の中でもかなり幅広くいろいろなものを展示していたんですね。でも、私が得意なのは文化財だけで、専門外のものが多すぎて……。自分の知識のなさに困ってしまい、別の部署へ異動願いを出したのです。学芸員って、そう簡単に空きが出ないから、なりたくてもなかなかなれない職業なんですよ。それなのに、異動願いを出したので、まわりには驚かれましたね。
その後、市役所庁舎の財務課に異動しました。震災が起きたのは、そのときです。
─── 陸前高田を襲った津波は、東日本大震災でも最大級、なかでも、市役所職員が亡くなった数が一番多いと聞いています。
そうです。陸前高田市役所職員400人のうち、死者・行方不明者は111人にのぼりました。あの日、私は市庁舎にいて、屋上で監視に当たっていた同僚の叫び声を聞き、急いで3階の屋上に駆け上がりました。実は、私は職場結婚をしていて、夫も市職員でした。夫はそのとき、市庁舎の向かいにあった市民会館で、確定申告の相談を受けていました。地震直後、夫も市庁舎の3階屋上に避難し、夫婦で無事を確認し、ほっとしたことを覚えています。でも、なかにはそのまま市民会館に残っていた人もいて、その人達は津波に流されてしまいました。同じ時間に、ほぼ同じ場所にいたのに、避難した場所が違っただけで、また建物のどの階段を上がったかで運命が変わってしまった。そのことから、自分は「生かされたのだ」という気持ちを常に持ちながら暮らしています。
─── そうだったんですね。
津波は、夫の両親も、職場の同僚も、1年2か月前に新築したばかりの家も、自分が生まれ育った町も、何もかも奪っていきました。この深い悲しみは、経験者でなければ、分からないと思います。だからといって、いつまでも下を向いていては、何も始まりません。「生かされた」のだからこそ、悔いのない人生を送りたい。子どもを欲しいと思ったのも、ちょうどその頃でした。でも、なかなかできなくて……。だから、妊娠が分かったときは、本当に嬉しかったですね。
妊娠が分かって、しばらくして市役所を退職しました。遅く授かった子というのもあって、とにかく大事に育てたかった。土地柄というのもあるかもしれませんが、子どもが大きくなるまでは専業主婦でいるつもりでした。
ところが、ここで人生を大きく変える出会いが訪れるんです。
─── わぁ、何ですか!?