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津波のあった故郷で、海と暮らす子どもたちを育てていきます

天澤寛子

NPO法人浜わらす事務局
宮城・気仙沼

海のそばに戻りたい、Uターン後にまさかの震災

ー「浜わらす」は、気仙沼の本吉で活動している団体だと聞いています。
地元では、子どもたちのことをやってる団体、海のことやってる人たちって知られていると思います。海での自然体験で地元の子どもたちに生きる力をつけてもらいたいというのが始まりで、今は、教育旅行や企業研修の受け入れプログラムも開催しています。

最近は海洋ゴミのプログラムも多くて、海洋教育の授業を請け負って学校に話をしに行ったりもします。そういうことが求められてきているのかなと思うと、やりがいがありますね。気仙沼でもビーチクリーンが定着してきて嬉しいです。

写真:NPO法人浜わらす

ー寛子さんは地元出身? 
そうです。気仙沼で高校卒業してから仙台のTV制作会社に就職してADをやったんですが、あまりにも不規則な生活に驚いて。ずっとこんなのが続くのは参るなあって、1年くらいで辞めて。その後10年間、いろんな仕事をしながら仙台で暮らしていました。

仙台で結婚して長女も生まれたんだけど、長女が幼稚園に入る前のタイミングで気仙沼に戻りました。

ーあ、震災を機にUターンしたのではなくて?
そう、ほんの数か月前。これから子育てしていくのに仙台では保育園も幼稚園も費用が高すぎて、このままずっとアパート暮らしもどうなの? って。夫の実家のある地域にUターンという案もあったんですが、私たち2人ともサーフィンが趣味なこともあって、やっぱり海のそばがいいなあと……。

というか、私が海で育ったから。どうしても海のそばで海が見えないと暮らしていけないなという思いが強かった。それで、とりあえず親子3人で気仙沼に帰ってきたのが、2010年の終わり頃でした。私の実家で仮暮らししながら、夫は気仙沼での仕事を探し、家もこれから見つけよう、新しい生活を整えようとしていたんですよ。その時の震災でした。

ーそうだったんですね。

あんなことになって、どうするってなって……。

実家は高台だったから津波の被害からは免れたけれど、長女が行くはずの幼稚園は流されて。夫の仕事の話もなくなった。私のほうはちょうど2人目の妊娠がわかり母子手帳をもらったばかりの時。地震の時は、実家でお昼寝してたんですよね……眠くて。出かけようと思っていたけど、眠くてどうしようもないからお昼寝をしてた。出かけていたら絶対に津波に巻き込まれていたよなって思うんです。

ーすごい……。
津波のあと、夫の実家に行く案も出たんだけど、あんなにひどい状態を見たのに、私が気仙沼から離れることができなかった。

海は確かに怖いものというか、その時だって恐ろしいと思ったけれど、でも、気仙沼の人は、それ以上の恵みを、海の恵みを知ってるわけじゃないですか。今の黒い海が本当の状態じゃないっていうことを知っているからこそ、海から離れられない。どうしても気仙沼で子育てがしたいという気持ちが強かったんですよね。

ー気仙沼に残ることを決めてから、どうしたんですか?
それが、その頃ちょうど、シャンティ国際ボランティア会の白鳥さんが気仙沼に来て「今から緊急救援活動をする、スタッフを現地雇用する」って話しているのがたまたまラジオから流れてきたんです。あ、本吉のこと言ってるねって、家族のみんなで聞いていました。しばらくしたら自治会長さんから話がきて、夫の笠原をスタッフにと推薦してくれたんです。夫も地域に来たばかりだったから、「どこの誰だべあの人」「あー、あの、寛子ちゃんのあれ、家さきたんだ」っていう感じだったんですよ。でもそうやって地域の方がつないでくれて、シャンティでの仕事が決まりました。

ー寛子さんはどうしてたんですか?
私は妊娠中で、その頃は放射能の問題もあって……。真実かどうかわからない話題ばかりで、妊婦は家から出ないほうがいいとか。実家の暮らしの中に私たち家族が割って入ったような感じでいたので、先のことが見えずにギクシャクしたり、どうしたらいいのかわからないのがみんな本音で。家族だから、身内だからこそ言わなくてもいいようなことをお互いに言ってしまったり、悲しくなってきちゃったり。結構、大変。すごく、気持ちは不安定でした。

下の子は2011年の11月に気仙沼の市立病院で産みました。病院は復旧はしてたけどすごく混乱していました。私、震災の年ってもはや、うろ覚えなんですよ。記憶のないところもある。上の子の幼稚園のこととかあったから引きこもりというわけではなかったはずだけれど……生きるのに必死ってほんとだなと思う。日々生活していくのでいっぱいすぎて。

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