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自然の中で、子どもの思いを大切にした保育を通じて「余白」を守りたい
赤畑綾子
一般社団法人モリノネ/元 気仙沼森のおさんぽ会共同代表
宮城 気仙沼
きっと気仙沼で暮らしていくんだろうな、私
─── 綾子さんは生まれてからずっと気仙沼に暮らしているんですよね?
なんとなくだけど、「きっと気仙沼で暮らしていくんだろうな、私」って思っていました。ここ以外なんて考えたこともなかった。中学を卒業するころ、将来何になりたいか真剣に考えて、料理か英語の道に進みたいと思ったんですが、気仙沼には行きたい高校がなくて。唯一、行きたいと思った仙台の高校は、家の事情で断念しなければならなくて。だったら無理に高校に行かなくてもいいんじゃないかと思って、中学を卒業して写真館で働くことにしたんですよ。
─── 写真館!? カメラが好きだったんですか?
いや、別に(笑)。不思議な縁なんですけど、修学旅行に写真屋さんが添乗するじゃないですか。そしたら、どういうわけか気に入られて、卒業後の身の振り方が決まっていなかった私に「うちで働かないか?」と誘ってくれたんですよ。それで、働くことになって。
─── すごい展開ですね(笑)
特に写真に興味はなかったのですが、とりあえず、働きながら将来のことを考えていけばいいかなと思って。
でも、やっぱり料理には興味があったんですよね、何より身近で想像がつくものだったし。なので、昼間は写真館で働いて、夜に料理学校へ通うことにしたんです。1年後、もっと本格的に料理の勉強がしたくなって、仕事を辞めて、調理師免許が取れる普通科で2年間学びました。
その後、19歳で結婚して、飲食店で数年働いてから、気仙沼の唐桑にある小学校の給食室で働くことになりました。震災があったのは、ここで働いて7年目のときでした。
─── では、小学校で被災したのですか?
ちょうど片付けをしているときでした。実は2日前にも地震があって、そのときはたいしたことなくて、あの日も「またか」って感じがあったんですよね。ところが、今回はものすごい揺れで、しかもなかなか止まらない。これはただ事じゃないぞ! と、急いで子ども達の様子を見に行きました。
その小学校は全校生徒70〜80人ほどの小さな学校で、給食職員は学校行事のお手伝いもしていたので、子ども達のこともよく知っているんですよ。だから、子ども達のことが心配で、心配で。幸い、全員無事でホッとしたのも束の間、その学校は丘の上にあったので、地域住民と児童を迎えにきた父兄が一気に避難してきました。日ごろから避難訓練や引き渡し訓練はしていたのですが、いざとなるとみんなパニックで。でも、私はその丘の上から自分の家を確認することができたんです、「ああ、うちは大丈夫だったんだ」と分かって。とにかく被害のない自分が落ち着かなくてはと思い、ひたすら大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせていました。
そこからは冷静になって、ひたすら避難してきた人達と車を誘導していました。なかには、「家も流されたんだ! 子ども連れてこの半島から出てかなくちゃならない、早く子どもを渡してけろ!」とパニックになる人もいましたが、「ダメです、お願いですからここに居てください」と何度も説得しました。その後、第二波、第三波が来て、町は壊滅状態に。もし下に降りていたら津波に巻き込まれていたと思います。厳しいことを言ったけど、それで何人かの命が救えたと思っています。