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気仙沼から全国へ! おいしいものを届けにあちこち飛び回りたい
佐藤春佳
お弁当・お惣菜 VOARLUZ(ボアラズ)代表
宮城 気仙沼
“いっとき”のはずの里帰りが、私の人生を変えた
─── 春佳さんはUターンをされていますが、一度は離れた気仙沼に戻ってきたのは、やはり震災がきっかけですか?
きっかけにはなっていますが、私の場合は本当に偶然だったんです。たまたま長男の出産で里帰りをしていて、翌日に東京に戻る予定だったところに震災に遭って。
実をいうと、子どもの頃は、この町があまり好きではなかったんですよ。田舎ならではの窮屈さがあって、早く外に出たいと思っていたんです。
─── 子どもの頃の春佳さんはどんな子だったんですか?
すごくませた子でしたね。体が大きかったし、見た目も大人びていたから、年相応に見られたことがなかったですね。一人で行動するのが好きで、同級生とはあまり合わなくて、学校に行かないこともありました。
一方で、人前に立つのは好きで、小学4年生の学芸会で主役を演じることになって。そのときに、お客さんが感動して泣いているのを見て、役者になりたいと思うようになりました。でも、この町では夢が叶わないと思って。
中学2年生のときに、東京の芸能プロダクションの俳優オーディションに行ってみたんです。合格してスクールに入れることになったんですが、ここから通うことはできないし、現実的ではないなと思って、そのときは諦めたんです。
でも、役者になりたいという気持ちは強く、どうしても諦められなくて、中学を卒業してから仙台で一人暮らしをすることにしたんです。バイトをしながら通信制の学校へ行き、一度は諦めたプロダクションのレッスンスタジオに通うために。
─── 16歳で一人暮らし? 大変じゃなかったですか?
大変でしたね。家から仕送りもなかったので、生活費と仙台から東京までの夜行バス代を稼ぐためにバイトの日々でした。でも、宮城県のバイトの時給って安いんですよ。だんだん生活がきつくなってきて、だったらいっそのこと関東に引っ越した方がいいんじゃないかと思って、スタジオの近くの川崎に暮らすことにしたんです。
─── 行動力がありますね
小さいときから、自分がやりたいと思ったことに関しては、行動力があって。そのときは、本気で役者を目指していたので、怖いものなしでしたね(笑)。
─── レッスンスタジオではどんなことを学ぶのですか?
芝居、ボイストレーニング、ダンス、殺陣などいろいろなことを学びました。映画が好きだったので、映画俳優を目指していたんです。だけど……。
─── だけど?
17歳のときに好きな人ができて、そこから一転。お互い若かったから生活費を稼ぐので精一杯で、だんだんレッスンに行けない日が続いて……。夢を追うどころではなくなってしまったんです。それからは、ずっと生活のために働いていましたね。
─── そうだったんですか。
その後、子どもを身ごもって、里帰り出産をしました。生後10か月が経ち、そろそろ東京に戻ろうと思っていた矢先に、「あの日」を迎えました。
実家は海のそばではなかったので、津波の直接的な被害はありませんでしたが、近くの川が氾濫し、家の1階天井近くまでが浸水しました。外に避難しようにもできなくて、急いで家の2階に上がり、小さい子どもを抱えながら一晩を過ごしました。翌日に自衛隊が救助に来てくれて、なんとか生き延びることができました。幸い、家族は無事で、山側に暮らしていた祖母の家で避難生活を送ることになって。
─── そこにしばらくいたんですか?
東京に帰りたい気持ちはあったけれど、変わり果てた故郷の町と家族を見て、今は帰れないなと。
─── 震災を機に、春佳さんの中で何か大きく変わったことはありましたか?
一番考えたのが“食”についてでした。
気仙沼は福島からは離れているけれど、やっぱり放射能が心配で。それまでは私、食に関しては無頓着だったんですよ。でも、子どもができてからは気にかけるようになって。自分の子どもに安心で安全なものを食べさせたいと強く思うようになりました。
でも、福島県の情報は発信されているけれど、宮城県の食物が果たして安全かどうか分からなくて。本当に大丈夫なのか疑いながら子どもに食べさせるのが嫌で、自分の目で安全かどうかちゃんと確かめたかったんです。そこで、放射能濃度を測定していた信州大学に、宮城県で土壌検査をしているところがあるか聞いてみたんです。わが子を守れるのは母親である自分でしかないと、そのときは強く思っていましたね。
─── お惣菜やお弁当の販売を始めたのも、安心で安全な食べ物を提供したいという思いがあったからですか?
そうです。こっちにしばらく暮らしているうちに、自分で何かを始めてみたくなって。祖父の自宅の周りには耕作放棄地がたくさんあって、まずは自分で作物を育てることから始めてみようと。といっても、自分一人ではできないので、全国各地から来てくれたボランティアさんに手伝ってもらいました。
その後、行政から補助金のサポートを受けられるようになり、自分たちで作ったものをお惣菜やお弁当にして販売するようになりました。食材は放射能測定を行い、測定結果を分かるように表示しました。子育て中のお母さんに安心して手にとって欲しいと思って。
当時、気仙沼にはお惣菜やお弁当を売っているところがあまりなかったんですよ。そういうのを買って食べるという生活習慣がないというか。何か新しいことを始めるのであれば、まだあまりないものをやりたいと思って。でも、畑をやって、加工もするとなると結構大変で、今はお惣菜とお弁当の販売をメインにやっています。