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デザインで人を幸せにしたい。ローカルから世界へ!
鈴木歩
pensea代表/デザイナー
宮城・気仙沼
やりたいことは、この町ではできないと思っていた
─── 歩さんは気仙沼のご出身だそうですね。
市街地から車で20分ほどいった唐桑町という小さな半島で育ちました。実家は海の目の前。複雑に入り組んだリアス式海岸ならではの景色が広がる町で、海とともに育ちました。
小さい頃から絵を書くのが好きで、将来は美術の先生になりたいと思っていました。でも、気仙沼には美術系の高校がなかったので、中学卒業とともに家を出て、仙台の高校に通いました。気仙沼は大好きだったけど、ここでは自分のやりたいことができないと思っていたんです。
─── では、気仙沼にいたのは15歳まで?
そうです。高校でデザインのおもしろさに出会い、卒業後は山形の大学に進学し、ビジュアルデザインを学びました。故郷への思いはあったけれど、当時は地方でデザインの仕事ができるとは思っていなくて、「デザインの仕事をするのなら東京」と、何の迷いもなく上京しましたね。
─── 東京ではどんなお仕事をされていたんですか?
商品のパッケージデザインやファッション雑貨のデザインをやっていました。ファッション雑貨のデザインをやっていたときにヒット商品が生まれ、自分が手がけた商品を街のあちこちで見かけ、とても嬉しかったですね。仕事にやり甲斐を感じ、忙しいながらも充実した日々を送っていました。
あの日もいつもように原宿の街を歩いていたんです。
テレビで津波の映像を観たときは、現実のこととは思えませんでした。自分の故郷が町ごと流されて……、実家もなくなりました。幸い、家族は無事でしたが、両親の落胆ぶりといったら……。
─── 震災後、すぐにUターンを?
すぐにでも戻りたい気持ちはありました。でも、両親が反対したんです。今帰って来ても、何もできないよ、って。確かに当時は、命にまつわる仕事は求められていたけれど、デザイナーなんて必要とされていなかった。今までは新しいものを生み出す仕事に誇りを持って取り組んでいたけれど、津波で何もかも流された町を見て、物を生み出すって何なんだろう? 自分の仕事って何なんだろう? って思うようになってしまって。故郷のために力になりたいのに、何もできない自分がいて、一人悶々としていました。
─── そうだったんですね……。
それが震災から2年くらい経つと、状況が変わってきたんです。復旧から復興へとフェーズが変わり、復興イベントや新しい商品の開発、情報の発信が増え、ようやくデザインが必要とされるようになった。そんなときに、幸運が舞い込んで来たんです。なんと、家のすぐ近くに事務所を構えていたNPO法人が、「ETIC. 右腕派遣プロジェクト」でデザイナーを募集していたのです。これはもう、私に帰って来い!と言っているようなもの。このチャンスを絶対に逃したくない!と、Uターンを決意しました。
でも、不安がなかったわけではないんです。いや、正直、不安でいっぱいでした。だって、中学生のときに気仙沼ではアート系の仕事はできないと、ある意味悟って、町を出たくらいですから。そこで一生やっていけるのかという不安はありました。でも、それ以上に、「今戻らなきゃ!」という気持ちの方が強かったんです。
─── 初めてのお仕事はどんなものだったんですか?
気仙沼は牡蠣の産地としてして有名なんですが、地元の水産加工会社が作った牡蠣のオリーブオイル漬けの商品パッケージのデザインを担当しました。
─── あ、なんか得意そう!
それがですねぇ……。デザインは本業だけど、東京とこっちとでは仕事の進め方がまったく違っていて……。東京の仕事は、自分たちが新しいものを生み出すという発想だったので、極端な話、カッコイイものを作っていればよかったんですね。でも、こっちは相手あっての仕事。どんな商品をどんな思いで作ったか、どんな人に届けたいかというディレクションから始まるわけです。そもそも私はデザインをするのが好きであって、人とコミュニケーションを取ることがあまり得意ではなかったんですね。ですから、話し合いから始まる仕事に慣れていなくて……。
─── 相手は商品開発担当や広報の方ですか?
それが、そういう担当もいなくて。社長さんだったり、社長の息子さんだったり、総務の方だったりといろいろ。相手もデザインについて詳しいわけではないから、お互い手探り状態って感じです。ゼロから考えるってものすごくエネルギーがいるんですよ。でも、こっちで仕事をしていくうちに、デザインをするって本来そういうものなのではないかと気づかされたんです。
作り手のことを考えなければ、いいデザインなんて生み出せないんですよ。作り手のことを考えるとは、その会社の背景であったり、歴史であったり、そこでどんな思いで作っているかといったストーリーであったり、誰を幸せにしたいかという思いだったり、いろいろなことを汲み取ることなんですね。だからこそ、話し合いがとても大切なんです。
─── 今までで一番思い出に残っているお仕事は?
こっちに戻って2~3年が経った頃、地元の海苔会社の商品パッケージを担当しました。その海苔会社は、東北地方に初めて海苔を持ってきた会社で、歴史ある企業なんです。でも、その事実は意外と知られていないんですね。そこで、そのストーリーをブランディングしていきました。出来上がったデザインを先方はとても気に入ってくれて、「そうそう、私たちはこういうことが伝えたかったんだ」と泣いて喜んでくれたんです。そのときに、「あ、私がやるべきデザインってこういうことなんだ」と、確かな手応えを感じました。