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肩書きは自分で決められる。デザイン業が地域の中を楽しくつなぐ御用聞きに

武藤琴美

ゆきしろ屋/デザイナー/地域ディレクター
福島 二本松

仕事で疲れている大人が楽しくなさそうに見えた

─── 琴美さんは二本松市の出身で、Uターンしてきたということでいいんですかね?

生まれ育ったのは元々の二本松市なんですが、今いるところは同じ二本松市でも合併前の岩代(いわしろ)町です。だから、自分の感覚としては、隣町に来たっていう感じ。旧岩代町の頃って図書館も綺麗だし、町の機能も1か所に集中していてコンパクト、しかも、町民じゃなくても使える。だから二本松市民なのに、すごい岩代町のサービスを使っていて(笑)、子どもの頃からファンだったのかな。

─── 子どもの頃からデザイナーになりたいって思ってたんですか?

うーん。中高生の頃、地元が好きじゃなくて。うちは両親ともに会社員なんですけど、いつも仕事で疲れて楽しくなさそうに見えて。周りの人とやっていくのが大変だなんて愚痴を聞くのも嫌で。今思うと、働くって大変なんだって伝えようとしていたと思うんですけど。それで、違う道もあるんだっていう反骨心で、地元工業高校の情報システム科に行きました。そこにはデザインコースがあったので。

卒業後、東京のデザイン学校に進学したんですが、学校に行きながら、発達障害の子ども達の放課後デイケアのボランティアに行くようになったんです。そうすると、人と話すのがすごく楽しい。それまでは、パソコンとだけ対話して黙々とできる仕事に就こうって思っていたのに。

─── デザイナーなら対人関係が少ないと思っていたんですね。でも、人と関わる面白さに気づいた、と。

さらに、福島市内の施設にもボランティアで出入りするようになりました。そこはひきこもりの若者の自立支援や、居場所づくりをする団体でした。自分自身もそこと地続きなんじゃないか、そんな気がしたんですよね。発達障害があるとか、何らかの理由で今自立できてない人と自分とそんな大した違いないよなって思って。その時の私って創作意欲がすごくあってデザインがやりたい! っていうより、動機が両親への反抗心だったのでメンタルが迷子になっちゃってたんですよ。自分ももしかすると、親との関係が一歩違えば、外に出ようと思わなくなっていたかもしれないなとか……。

その福島の施設でボランティアをしているタイミングで震災が起こったんです。地元の住民センターが沿岸からの避難者を受け入れ先になったと聞いて。何かできないかと同級生と集まって避難所に行くようになり、福島県のボランティアに参加しました。

─── 避難所では何を?

主に地元の子育てについての情報提供をやっていました。全然知らない人とも話さなきゃいけないし、今までの自分の狭い世界よりも、いろんな世代の人とも会話するきっかけになって。

一方、私が体感した限りですが、二本松の避難所の雰囲気が日に日に悪くなっていたんです。そういう時も子どもに対してはみんな団結できる。子どもがいると雰囲気も和らぐというか。やっぱお母さんたちの「子どものために」っていうすごい必死さがあって。

そんな中で私も、もうデザインのスキルを一生懸命学ぶっていうのに一旦区切りをつけて、子どもに関わること、教育関係に進みたいって思うようになりました。

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