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生み出したいのは分断ではなく、楽しい暮らしと美しい森

渡部友紀

家具と家の「ラ・ビーダ」/行きつけの杜プロジェクト
福島 郡山

分断を生んではいけないと思った

─── 震災当時はどんな様子だったんでしょうか。

福島に来て13年目で震災を経験しました。娘が3人いるんですが、一番下の子はまだ3歳でした。直後は、原発事故の影響についてさまざまな情報が飛び交っていてパニック状態でした。こんなときに家具が売れるはずもないし、私は週に1回休みをもらって地域の幼稚園や学童保育でボランティアをしたりしていました。とにかく地域の子どもたち、お母さんたち、先生たちが何を考えて暮らしているのかを知りたい、自分にできることはやりたいという一心でした。そうやって1年間過ごしました。いろんな人の話を聞いて、保護者で集まって教育委員会に行ったりもしましたが、「これはなかなか難しい」と思ったんです。一部を変えることができてもそれは分断を生むだけなので意味がないなって。分断を生んでまでやるべきことなのかなって。

─── 「分断」というのはどういうことでしょうか?

例えば、小学校では窓を開け放って授業をする先生もいれば、窓もカーテンも締め切って授業をしている先生もいる。授業でトマトの栽培一つやらせたくないっていうお母さんもいれば、「日本の医療は進歩していくんだからこんなことを心配しているのはおかしい」っていうお母さんもいた。今ある放射線量は測れても、それが将来子どもたちにどういう影響を及ぼすのかということについては、誰も「こうだ」と言い切れないところがありました。だからといって心配している人が心配していない人に無理をして合わせることはできないし、逆もそうですよね。大事なことは子どもたちを混乱させないことなのに、確固たる答えがないから合意が取れない。合意が取れないまま強引に進めてしまうと分断が生まれてしまう。

そうこうしているうちに、次女が真っ黒な絵を描き始めたんです。それを見て、お義母さんが「ちょっと考えたほうがいいんじゃない?」って言ってくれて。茨城の実家の母も「今いっぱい仕事があるわけじゃないし、一回出てみたら?」と。夫は会社の立て直しがあるので福島に残り、私と娘三人で茨城県に避難したのが2012年3月でした。茨城への引越しが決まった直後に、福島県全域の人たちが集まって「これからの福島」について考える会がありました。この集まりに参加したことがきっかけでご縁がつながって、茨城に避難している人たちのサポート組織に関わったり、茨城県内の自主避難者交流会を運営したりするようになりました。

─── ご自身も避難され、また他の避難者の方と関わる中で、友紀さんはどんなことを感じたのでしょうか?

みんなそれぞれ本当にいろんな経験をしていて、被災者とか避難者とか、とても一つにはくくれないんですよ。でも、「結局、みんな納得してないんだな」って思ったんです。人災によって、ある日突然自分の大切なものが奪われた。それに納得いってない。納得できないから次に進めず、誰かのせいにしたり誰かを攻撃したりしてしまう……。

例えば、自主避難者交流会に来る福島県庁の職員さんを、みんな糾弾するんですよ。「なんでこんなことになったんだー!」「お前はなんなんだ!」みたいな。そのやり取りを見ていて、「これで何が解決するんだろう?」って思ったんです。だから言いました。「ちょっと待ってもらえますか? これを続けることでみんな幸せになれますか?」って。県職員の方だって家族と離れて茨城まで来て、福島県民のために動いている。でも、福島県の制度の中ではできないこともあります。私がもし彼の立場だったら、「茨城県の制度を使ったらできますよ」とか、「この部分を変更すればこの仕組みを使えますよ」って頭をひねると思います。でも、それはお互いに信頼し合って“この人たちのために”と思えないと、できません。こんなやり取りをしていては絶対に無理です。だから「この場は糾弾するためにあるのではなく、自分たちが楽しく、笑顔で暮らしていくために何ができるのか考える時間にしたい」と伝えました。

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