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舞根という土地に惹きつけられ、選択してきたことが形になっていく

畠山菜奈

舞根キッチン
宮城 気仙沼

なぜか惹かれるこの土地。そんな出会い、なかなかない

─── 菜奈さん、本当に舞根が好きなんですね。ととさんとはどこで出会ったんですか?

実は……ととより先に、舞根と出会っているんです(笑)。

私は同じ宮城県でも涌谷町という内陸の出身で。高校卒業後すぐ仙台で就職して働いていたんですけど、なんというか、野外でできる仕事をしたいという思いがあって、ちょうど2010年に仙台での仕事を一旦辞めてみたんですね。小学生の頃から子どもキャンプに参加したり、大人になってからはたまに山に登ったりもしていたので、山小屋やロッジもいいなあと思って話を聞きに行ったり。

─── 自然が好きなんですね。

外の景色とか、時間の経過とかを体感したかったんでしょうね。道の駅のチラシで、登米の東和町にある水源地で里山整備イベントがあるのを知って参加するようにもなりました。森林インストラクターの方と一緒に山菜を採ったり、森の下草刈りをしたり。それが実は「森は海の恋人*」の活動の一環で、気仙沼の唐桑半島から海の人たちが来ていると気がついたのはだいぶ経ってからでした。

話をするうち、夏の子どもキャンプのスタッフをやってみない? とお声がかかって。子どもの頃のキャンプが大好きだったのもあり、「ぜひ参加させてください!」と。それで、2010年の5月に、キャンプベースにする古民家の掃除をしに、初めて泊まりがけで唐桑の舞根湾まで行きました。

─── 東日本大震災の前年ですね。

そうです。初めて舞根に来た時、湖のような、本当に静かな海を見て、海のイメージが一瞬で変わってしまいました。なにしろ、景色がすごく綺麗。

内陸育ちの私には、舞根の、海での暮らしのようすが全部、初めての経験でした。スタッフなんだけれど、子どもたちと同じ目線で体感して、一気にはまってしまったんですよね。

秋のキャンプスタッフにも手を上げて、結局、舞根に通うために、また仙台で仕事を始めたんです(笑)。

─── 震災の時はどこにいたんですか?

職場である仙台のスポーツ用品店にいました。アーケードが土埃に覆われて目の前が見えず、足もガクガク震えて死ぬかもと思いました。数日、避難所を転々とし、家に帰ったのは10日以上たってからでした。

3月中旬頃、キャンプで共にスタッフとして活動した友人が物資を積んで唐桑に行くと連絡をもらい、乗せて行ってもらいました。舞根に着いた時は何にもなかったというか……キャンプで子どもたちと過ごした古民家は、土台ごと全部流されてしまっていて。

その場で私に何ができるのかずっと悩んでいました。物資やボランティアがたくさん集まるけれど、その実は家族経営の水山養殖場なので、対応に追われるというか……。私はとりあえず、水山のお宅に短期間住み込んで、水汲みをしたり、いらした皆さんと片付けをしたり。あとは、子どもたちの面倒を見るというか、夢中で一緒に遊んでいました。後から考えると、子どもたちと舞根の自然の中で遊んで舞根の魅力にとりつかれ、私が元気づけられていたように思います。震災後も続いたキャンプで相変わらずスタッフもして。やっぱり舞根に通ってしまうんです。毎日仙台で働きながらも、ずーっと頭の中に舞根のことがある。

─── 舞根に暮らすようになったのはいつからなんですか?

それが……2012年秋に、支援団体が舞根で新しい産品づくりの事業を始めることになり、働きませんかって誘ってもらいました。声をかけてもらったときには、飛び込んでみよう、もう舞根に住むぞと思って。仙台での仕事辞めちゃって。ただ、私の中に何か引っかかるものがあったんです……。

─── 何が引っかかりだったんですか?

新しい事業というより、地元に根付いた仕事をしたい、舞根のことをよく知りたいと思っていたのかもしれません。舞根の人から見てよくわからないってことをするっていうのが引っかかったんですね、きっと。

そうやって悩みながら通っているうちに、水山養殖場の専務(今はお義兄さん)が、「仕事辞めてきたなら、うちでバイトするか!」って言ってくれて。ああ、これだ! って。

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