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幻の染料植物パステルを使った気仙沼ブルーで新しい地域経済を作りたい

藤村さやか

(株)インディゴ気仙沼 代表取締役
宮城 気仙沼

震災2年後に訪れた1泊2日の旅、運命の出会いで気仙沼へ移住

─── 気仙沼市内にあるモルタル作りの「旧平野本店店舗」。ここが「インディゴ気仙沼」さんの藍染工房なんですね。国の登録有形文化財にも登録されているとあって、風情があります。いつもこちらで藍染を?

ええ、染色の製造作業も手染め商品の出荷作業も、ここで行なっています。ご縁あってこれまでに10代から70代までの女性たちが働いてくれています。

希少植物のパステルを栽培するようになって、昨年からは気仙沼の海のような、優しい色合いのパステルブルーを使った商品に力を入れて製造、販売しています。

─── さやかさんは、以前は関東にお住まいだったとか。なぜ気仙沼で藍染の仕事に取り組むことになったのですか?

本当に、偶然が重なって。私はもともとアメリカで生まれ、いったん日本に。その後父の転勤で再び6歳から11歳まで、アメリカで育ちました。フランスで働いたり、東京で起業するなどして、気仙沼にも藍染にも縁がなく過ごしていたんです。

初めて気仙沼に来たのは、2013年、友人に誘われての1泊2日の旅でした。それまでも、震災後の東北のことは気になっていたけれど、都会で暮らす私がどんな顔をして訪れたらいいんだと、頭でっかちに考えて動けなかったんです。でも友人と旅行に来てみて、地元の方々と触れ合っている時に出会いがありました。

─── 出会いとは?

この旅行で、のちの夫になる人と出会ったんです。初めてきた時、気仙沼は観光客が多くてみなさんとても明るい印象で迎えてくれました。でも、震災からまだ2年しか経ってないのに、本当にこんなに元気なのかな? 実際のお気持ちはどうなんだろうと思い、夜の気仙沼もみてみたいと当時の復興屋台村で開催されていた「気仙沼バル」というイベントに参加したんです。そこでも地元のおばちゃんが明るく、「飲みんさい、飲みんさい。ほらそっちの男3人も一緒に」なんて言って店にいる若者同士をつないでくれて。そのうちの一人が、気仙沼で生まれ育った彼だったんです。

夜も更けて、スナックのカラオケで復興支援ソングが流れると、店にいた地元の人たちは震災のことを思い出したのか、泣き出してしまったんですね……。ああ、やっぱりまだ辛いんだなぁ、と思っていたら、誘ってくれたおばちゃんも泣いていて「私、もうダメだから帰るわ!」って帰っちゃったんですね(笑)。後には若者だけが残されて……。

─── そこで未来の旦那様と仲良くなった?

その時は、彼は私の友人と親しく話していて、私は仲を邪魔しないよう遠慮していたんです。でも、東京に帰ってからSNSでつながった時に「初めて見た時から……」と告白され、お付き合いが始まりました……。しかも割と早い段階で、「遠距離でもいいから、籍だけ入れたい」と言われて、別居のまま籍を入れました。

─── ええー! 展開が早い!

そうですね(笑)。でも実際とてもいい人だったし、母が青森県出身なんですが、私は東北の男性の物静かで頼もしい気質が好きで。結婚するなら東北の人がいいななんて思ってもいたんですが、その通りの素敵な人でした。子どもも持ちたいと思っている時期でもあって、トントンと話が進んだんだと思います。

それまで私は東京で、一般企業に勤めながら外食ブロガーとして活動したのち、28歳の時に食のPR会社を立ち上げ経営していました。仕事は面白く充実していたので、夫とは行ったり来たりの別居婚で、もう少し東京で稼いでから東北に行こうと考えていました。

でも結局、その後すぐに息子を授かって。ちょうどその時、事業の共同経営者もたまたま別のビジネスに進むことになったので、それを機に気仙沼に引っ越すことにしたんです。

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