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プランナーとしてエンターテインメントを社会課題とつなぎ、社会を変える力に

宮本英実

MUSUBU代表
福島 いわき

「好き」を突き詰め、自分のやり方で音楽業界にたどりつく

─── 英実さんが取り組んでいること、多岐にわたると思うのですが、具体的にどんなことをしてきたんですか?

 依頼者のニーズに合わせて、様々なプロジェクトのプランニングをサポートすることが多いんですが、なんでも屋的なところがありますね。音楽業界での仕事が長かったので、東日本大地震後は地域活性化ユニット「MUSUBU」を仲間と設立して、社会課題への支援とアーティストをつなぐ仕組みづくりをしたり、アートを通じて地域を面白くするつなぎ目を担ったり……そういった意味では、コーディネーターの役割を担う要素も強いです。

「エンターテインメント×クリエイティブ」を組み合わせ、「楽しい」をきっかけに社会課題に関心をもてる仕掛けづくりなども行ってきました。

─── 音楽業界って少し遠い世界に感じます。英実さんはいわきでどんな子ども時代を過ごしていたんですか?

いわき市の小名浜という港町の出身で、実家は鮮魚仲卸業を営んでいます。子どもの頃は、英語とサッカーに夢中でした。

当時は安室奈美恵さんの大ファンで、小学生の頃、東京ドームで開催されたライブに親に連れて行ってもらいました。TVの中にいたスターが5万人の観客を魅了している姿をみて、私はこういう空間をつくれる人になりたい、音楽に携わる仕事をしようと決めました。

─── 子ども時代にもう、音楽に関わる仕事がしたいというはっきりした意志をもっていたんですね。

 やりたいことが明確だったのですが、当時の音楽業界は狭き門でした。早く仕事に就きたいと、高校に入ってからはバイト三昧の日々を過ごし、お金を貯めては東京までライブに行くことを繰り返していました。どうしたらこの業界に辿りつけるか、いろいろ調べ、マスコミや音楽系に有利な専門学校に入りました。当時から戦略的な就職計画を練っていたんです(笑)。

─── 戦略的な面接計画! それは是非聞きたい。

私は字を書くのが苦手というコンプレックスがあり、だから面接で応募しても履歴書で落ちちゃうなと。なので、まずはとにかく業界の人に会ってコネを作ろう! と考えました(笑)。専門学校で業界の関係者に会えるときには、「とにかくなんでもやります!」とアプローチし続けました。

専門学校では、マネジメントや、プロモーション、オーディションしてアーティストを発掘してライブをやるまで、具体的な業務を勉強していたんですが、半年ほど経って、学校で学ぶより働いたほうが早いなと気づいて。その頃にはアルバイトでいろんな現場を手伝わせてもらうようになっていました。当たり前だけど勉強するより現場はリアルで、お手伝いしていた方の紹介で、音楽の仕事に辿りつくことができました。

─── 実際に働いてみての感想はどうですか?

19歳の頃には、アーティストをマネジメントしていました。楽しかったけど、その一方忙しくてしんどいこともありました。邦楽も洋楽も担当し、クラブイベントを運営したりしていました。陽気なノリの会社で、スタッフ同士の関係はとてもフラットでしたが、実働は、想像以上にハードワークでした。好きなアーティストと仕事が出来てラッキーな部分はありましたけど(笑)、とにかく時間がなく、疲れ果てた末、沖縄で島暮らしをしようかなと思ったこともありました……(笑)。

─── 想像以上のハードワーク……大変な環境で働いていたんですね。

その後はご縁あって、レコード会社に転職しました。生意気な20代でしたが、責任をもって色々なことにチャレンジさせてもらえました。

その一方で、当時自分が属していた組織の中に女性の管理職がいないことに気づきました。キャリアアップのイメージができず、居場所を変えた方がいいと考えることもありました。また、音楽の仕事だけじゃなくて、広く捉えて別のエンターテインメントもやってみたいと思うようになって、海外での仕事にも興味を持ち始めていました。

そんな矢先に、東日本大震災が起きたんです。

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