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報道の世界から一転。巣立っても帰って来られる“ツバメの巣”のような場所を

横山淑恵

ベーカリーカフェ「ル・ニ・リロンデール」店主
宮城 東松島

もしかしたら明日死んでしまうかもしれない。やりたいことがあるなら、今やろう!

─── 淑恵さんは以前、テレビ局で働いていたと聞きました。それがなぜカフェを始めることになったのでしょうか?

やはり、震災の影響が大きかったと思います。私の生まれ故郷の東松島市は沿岸部にあり、震災で大きな被害を受け、たくさんの人を亡くしました。

私は大学進学を機に上京し、東京で10年間暮らしていました。映像の仕事がやりたくて、日大芸術学部に進み、卒業後はテレビの制作会社に就職しました。カメラマンからスタートし、震災の頃は企画進行のすべてに携わるディレクターをしていました。子どもの頃から憧れていた仕事に就き、忙しいながらもとても充実した日々を送っていたのです。

─── では、震災のときは東京にいたのですね。

「あの日」から2週間、家族と連絡が取れず、不安な日々を過ごしました。ようやく居場所が分かり、家族全員が無事と知り、体の力が抜けました。すぐにでも故郷に戻り、家族や街の人を助けたいと思いましたが、私にできることなどたかが知れています。帰ったところで何もできないのなら、今ここで私にできることをやろう。自分にできることは何かを考えたとき、震災を風化させないためにも、被災地の現状を取材し、伝えるべきだと思ったのです。

─── 東松島にも訪れたのでしょうか?

何度か取材をさせていただきました。だけど、取材を進めていくにつれて、報道側と地元の人の間で何か温度差を感じるようになったんです。今、私がやっていることは本当に地元の人のためになっているのだろうか? 被災地の人達の日常を邪魔していないだろうか? と疑問に思うようになって。自分なりに被災地に寄り添ってきたつもりだったけれど、単なる自己満足なんじゃないのか、もっと違う寄り添い方があるのではないと自分自身を見つめ直すきっかけになりました。そして、震災から2年が経って、やっぱり東松島に帰ろう……、そう思ったのです。

─── Uターンする際には、すでにカフェを始めようと思ったのですか?

特にあてはなかったのですが、地元でカフェをやりたいと思い、戻ることにしました。あれだけ大きな震災を身内が経験すると、うちはたまたま家族全員が無事だったけれど、明日のことは誰にも分からない。もしかすると明日死んでしまうかもしれない。だったら、やりたいことがあれば「いつか」と先延ばしにせず、今やろう! そう思ったんです。多分、あの震災の後にそう思った人は多かったと思います。

学生時代にカフェでアルバイトをしていましたが、自分の店を出すにはまだまだ経験が足りない。そこで、カフェとパン屋さんで2年ほど修行の気持ちで働きました。1日の始まりが幸せな気分になるような、おいしい自家製パンとコーヒーを出すカフェをやりたいと思っていたからです。

─── コツコツと準備を進めていたんですね。

転機が訪れたのは、Uターンして4年目のときです。登米市に「ミネソタ」というカフェがあったのですが、そこのマスターが店をやめるとのことで、居抜きでカフェをやってみないかと声がかかったのです。そのカフェはマスターが2回変わっているけれど、登米に10年以上あるカフェで、地元の人に愛されていました。場所も大きな通り沿いにあって、カフェを始めるにはちょうどいいと思い、やってみることにしたんです。

写真:本人提供 カフェ「ミネソタ」だった場所

─── それは大きなチャンスでしたね!

私は自分がやりたいことをわりと口に出してしまうタイプなんです。子どもの頃、映像の仕事がやりたいと思ったときも、口に出したから周りから「こんな大学があるよ」って、近道を教えてもらえた。登米でカフェができるようになったのも、「私はカフェをやりたい」と周りに言っていたから声がかかったのだと思います。やりたいことは胸の内に秘めておくよりも、口にした方がいい、そう思っています。

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