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誰もがそれぞれつらさを抱えているからこそ、手を伸ばしてつながっていきたい

宮﨑恵美

(一社)Mother Tree代表理事/NPO法人ReLink副代表理事
福島

被災、孤独育児、娘との死別…‥暗黒期が今の私を育ててくれた

─── 恵美さんは、現在福島市で産前産後の育児支援や、女性の社会参加支援、家族を亡くした方への支援などを包括的に主宰されています。もともとは看護師だったと聞きましたが、今の活動は、どういった経緯で始めたのですか?

話せばすごく長くなるんですけど(笑)。福島県で生まれ育ち、大学卒業後看護師になりました。独身の頃はNICUで長く働いて、すごくやりがいはあったんですが、燃え尽きてもいたんです。そこで結婚後にひとまず大学院に進学し、看護の学び直しをしました。

在学中に保健師としても働き始め、当時はとても充実した毎日でした。卒業間際には私も妊娠していて、臨月で卒業式に出るはずだったんです。でも、そんな時に東日本大震災に遭いました。結局卒業式はできなかったんですよ。

─── 臨月で被災されたんですね……。当時は福島のどちらにいたんですか?

夫の職場が塩釜だったので、家は塩釜にありました。ただ私は大学院に通いながら翌月に福島市内の施設で出産も控えていたので塩釜と福島市を行き来する生活をしていて、その日は、仙台駅前で被災したんです。とにかく家に帰ろうと、やっとの思いでタクシーを捕まえたら、「津波で塩釜は多分壊滅だろう。沿岸には行けない」と言われました。

テレビで津波の映像が流れ、いつも夫が当直明けに行っているパチンコ店がある地域が波にのまれる映像を見て……。あの日も当直だったから、「ああ夫は死んでしまった」と真っ青になりました。

実際は、夫は無事で、塩釜の街も自分が住んでいた辺りは無事でした。もちろんその後もすごく大変だったんですが……。

─── 塩釜の街はどんな様子でしたか?

場所によって道路も建物も壊れてぐちゃぐちゃでした。でも1番の問題は水も電気も食べ物もなかったことです。塩釜はなんとか壊滅を逃れたけど、国道が分断されていたこともあり、支援物資を届けられなかったんですね。1日おにぎり1個食べられるかどうかという感じで、皆さん、エコバックを持って街中をうろうろしていました。夫は仕事だったので、私はひとりで、水や食料を分けてもらうために並んでいました。

すると、「妊婦が並んでる」と噂になって、ご近所の方が井戸水やパンを分けてくれたりもしたんです。それまでほとんどつながりがなかったご近所さんと、その時知り合えたことは唯一良かったことですね。

─── 出産もそのまま塩釜で?

はい、1か月くらいすると電気もガスも通ったので無事出産もでき、5月から新生児を連れて福島県内の実家に帰ることになりました。

当初、実家からは「原発のことがあるから帰ってこない方がいい」と言われていたんですが、お腹が空いて臨月なのに痩せてしまったことを考えると、「食べるものがあるなら生きていける」という気持ちでした。最初のうちは、家族が揃って、ドタバタしながらも楽しく過ごせていたんです。でもその後、長い暗黒期に入ってしまって……。

─── え? 何があったんですか?

まず、長女が生後2か月で、先天性胃軸捻転症という病気だと判明しました。治療は特に必要はなく成長するに従って良くなるのですが、頻繁に吐いてしまう病気です。看護師として何度か経験した病気だし、自然に治るとわかっていたけれど、わが子がなった時はすごく不安で。生後4か月頃から成長がかなりゆっくりになってしまってとても心配でした。

夫も医療職なのに多忙で家におらず、相談しても聞いてくれず、大喧嘩もしました。周りに理解してくれる人もいなくて、仕事も辞めていたので、どんどん内向きの孤独な育児をしてしまっていました。その頃のつらさを覚えているから、母親支援の仕事をしたいという思いを抱くようになったんだと思います。支援の場を創るまで行き着くには、まだまだ時間がかかるのですが。

─── 当時は、どうやって孤立育児から抜け出したんですか?

1年ほどしてようやく娘の体調も良くなっていったので保育園に娘を預けて、保健師の仕事に戻ることにしたんです。やっぱり、働くことで少しずつ気持ちが上向きになっていきました。仕事も楽しくなってきたところで妊娠。すごく嬉しかったのですが、次女は生まれてすぐに先天性の心疾患がわかったんです……。

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