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地元で美容師として働きながら、ママたちが笑顔になれる場づくりを続ける
小川麻里子
ままりば代表
岩手 大槌
大変なのに楽しい、鼻歌を歌ってた自分に驚く
─── 麻里子さんはウィメンズアイのグラスルーツ・アカデミー東北の始まりとなる2015年の国際地域女性アカデミーに参加してくれたんですよね。ずいぶん経ちましたが、ママたちの居場所「ままりば」を今も続けてるんだなって、時々Facebookなど見ていたんです。
ありがとうございます。コロナで活動しづらくなっていたんですが、続けていました。
─── もともと大槌の出身で、美容師さんなんですよね?
ずっと大槌です。実家が理美容院をやってるんです。私も高校卒業後、盛岡の専門学校に通って、美容師になりました。そのまま3年ほど盛岡の美容院で働いていたんですが、帰って来なさいと言われて地元に戻ってきて。
─── 地元の方々が集まるお店なんでしょうね。美容師になりたかったんですか?
いえ、なりたかったわけじゃないんですが……、なぜかなってしまったというか。それからずうっと実家の美容院で働いています。成人式の頃に再会した地元の人と結婚して、子どもが4人います。
─── 震災の時も美容院に?
そうですね。震災の時はちょうど3人目がお腹の中にいた時でした。上の子は小学校低学年で、2番目の子は2、3歳くらい。もうお腹が大きかった私の代わりにおばあちゃんが小学校に子どもの無事を確認しに行って、そのまま流されてしまって……。家やお店は残ったんですが、周りがああいう状態になってしまって……。
─── そうだったんですね。そんな中で、ままりばを始めることになったきっかけを教えてください。
震災の翌月に3人目を産みました。私はもう3人目でなんとなく慣れも余裕もあったんですが、他のお母さんたちはどうなんだろうって思い始めたんです。仮設住宅では壁が薄くて隣同士の音も聞こえるし、赤ちゃんの泣き声も筒抜けになる。大きい声で怒ったら虐待だって言われる、みたいなことをね。そういうことがなんだか聞こえてきたんですよね。
それと、仮設住宅の談話室っていうんですか、あの部屋にくるのはお年寄りがメインで、子どもがわあって行くと、「あんたたちは来る場所じゃないよって」言われていたとか。そういうのが聞こえてきて。
─── そうか、美容院だと風の噂が聞こえてくるんですね。
それで、小さい子がいるお母さんたちの居場所がない、そういう場所があったらいいのと思いました。でもやり方がわからない。そうしたら、新聞の折り込み広告だったか「研修を受けて地域でなにか始めてみませんか、起業しませんか」っていう内閣府の募集が出ていて。あ、こういうので始めればいいのかな? と、その研修に応募したんです。
─── 行動力ありますね、研修の場所はどこでした?
釜石市での開催でした。釜石のNPOの人たちと一緒に、半年くらい通ったかな。研修ではスキルだなんだと、カタカナ語だらけで頭が痛くなるし……いっぱいいっぱいになっていましたが。
─── ああ、わかります、カタカナ語が多すぎる感じ……。
そうやって研修を受けている頃、頭もいっぱい、体もいっぱいで疲れているんだけれど、ある日夕食を作っていたら、子どもに「ママ、今日何かいいことあった?」って言われたんですよ。気がついてなかったけど鼻歌を歌ってたらしくて。頭と体は疲れてるのに心が満たされているっていうか。あ、自分の興味あることをしているとそういうことがあるんだなって、そこで気づいて。
自分が作りたい「居場所」みたいなものを考えていた時に、ママの興味のあることや楽しいことがあれば、きっと家に帰った後も温かい気持ちでいられる。家族を笑顔でおかえりって迎えられるだろうなと思いましたよね。自分でなんとなく、実体験していたというか。
─── ですよねー。でもこの頃って、まだ3人目のお子さんは乳幼児だった頃ですかね?
そうですね、1歳くらいかな。仕事も再開していたので保育園に預け始めたあたりだったかな。それまで、こういうことやりたいって言うと、子どもがいるのにと家族に反対されることがあったり。なので、もう行くことに決めたからって、手続きをしてから事後報告しました。すると、もうどうしようもない、頑張ってみたいな(笑)。
─── 研修では、どういうことをしたんですか?
勉強しながら自分の計画を作りました。最後は審査員の前でプレゼンをして。その時は、ママが子どもから一時的に離れられる場所、情報交換ができ、ほっと一息つける場所、カフェみたいなイメージでした。その場所で、お母さんたちは短時間でも子どもを預けてものづくりで少しお金を稼げるみたいな。稼ぐと言っても大した金額ではないんですが。
─── やはり、お母さんたちの居場所ってことですよね。それで始めたわけですね。
そうです。合格して採択されたので助成金も出ました。でも、その頃は、場所が本当になかったんです。カフェを作ることはできなくて、とにかくハコがあればと、建物が残っていた中央公民館での集まりを始めました。