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心の引きこもりから、意欲的に生きるへ。楽しいという感覚を貯めていきたい

阿部史枝

猫八ソーイング/みち草工房/パタンナー・縫製士
宮城 石巻

震災後に考えた、「ここにいる」っていうこと

─── こんにちは、今日はよろしくお願いします。そこは、史枝さんの仕事場ですか?

そうです、みち草工房といいます。シェア工房で、仕事場兼秘密基地って呼んでいます。はじめはIRORI石巻の中で始めたんですが、今は石巻の街なかにあるリノベーションした古民家でやっています。庭や竹林もあるんですよ。

─── 史枝さんが石巻にUターンしたのは震災前でしたっけ?

震災の2年くらい前でした。長く病気をしていた父の具合が悪く、もういよいよかなと。その先どうなるかわからなかったけれど、父と一緒に生活できたらと石巻に戻ってきたんです。東京では服のお直しの会社で働いていて、こちらで同様の会社を見つけました。震災の頃は、勤務形態が不安定な業務委託で、仕事が少ないときは休んでほしいと言われていて、3月11日あたりもちょうど、まとまった休みになり……。

─── 家にいたんですね。

はい。実家は、石巻の渡波(わたのは)地区にあって、海岸から800メートルくらい。地震が来て外に出てみたら、「水来たど! 逃げろ!」と走ってきた人達がいて、自分も走って逃げて裏の跨線橋に上がりました。家は1階が浸水しました。田んぼがあったおかげで少し津波の勢いは弱くなっていたのかもしれないです。でも住める状態ではなかったので、それからしばらくは、母と一緒に母の実家に避難しました。昔ながらのアナログなストーブがたくさんあったから暖がとれるし、何かあっても人が集まっていた方がいいんじゃないかと。そこから実家に通って片付けをしました。震災の前に父はもう亡くなっていました。

─── いわゆる避難所には行かなかったんですね。

そうです、そのまま、母の実家に居候していました。仕事もなにも全部なくなって、ライフラインもなくなって、多分ある意味身軽になったせいかおかしな感覚でした。いろいろ今までぼんやりしていたことがクリアになったというか、あれはなんだったのかと今になって思います。ご飯を食べなかったからなのか、早起きだったからなのか、「自分はこういう風に思っているのに」って研ぎ澄まされた感じ。ストレスとか、欲求みたいなのとか、すごいはっきりしてしまったような気がしました。知り合いが物資を送ってきてくれて、いろんなものが届くんですが、その中でちょっと美味しいと思ったお菓子があったらむさぼり食べてしまうとか。

─── そうだったんですね。自主避難だと支援物資が届きにくく大変だと聞きましたが

母の実家は商売をやっていたから、もともと地元の人同士のやりとりがあり助けあっていたと思います。昔から、お互いのお店で買うとか、何かしらお茶飲みしていたりとか。それに、母も叔母も地元で子育てをしたので、それぞれのPTA仲間がいたり、母が講師をしているパッチワーク教室の生徒さんたち、高校教師だった父の卒業生たち、それぞれ地元につながりを持ってるんです。

一方、私自身には何もつながりがないなあって思うようになりました。内向的なので、地元では、母、父、姉、妹という活発なタイプの家族に埋もれてなんとなく育ってきました。父のことがあって帰ってきたものの、仮住まいというか、全く地元の友達と会ったりもしなかった。根無し草的で、ここで暮らすっていう覚悟を持っていなかったというか。

そのとき、やっぱりちゃんと自分で関わっていきたいなと思ったんですかね。自分の、ここにいるっていうことを、自分の暮らしを作っていこうと思ったら、自分が動かなきゃいけないなって。子供の時から感情を出すのが苦手というか、自分の感情があまりわかってないところがあったんですが、その時は何かが湧き上がってきた感があって。

─── そこから、どうしたんですか?

2012年に新聞で、一般の出店希望者が古本を持ち寄る「一箱古本市」があると知って、思い切って応募しました。渡波にいると石巻の街なかでの動きもよく知らなかったんですが気になるから、行ってみたかったというのもあって。

その出店をきっかけに、一箱古本市の主催の方が、「本のコミュニティスペースを作る茶話会をするから興味がある方はちょっと来てみてください」みたいなメールを送ってくださって、顔を出すようになりました。

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