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福島で子どもを育てる覚悟を決めたら、未来を考えるようになった

佐原真紀

NPO法人ふくしま30年プロジェクト理事長/福島市議会議員
福島

放射能について正確な情報を知っていたいだけなのに……

─── 真紀さんは東京からUターンされていますが、戻ったきっかけはやはり震災ですか?

実は震災ではないんです。東京に暮らしていたときに、たまたま同郷の福島の人と出会い結婚し、子どもができたのですが、私も夫も福島の自然の中でのびのびと楽しい子ども時代を過ごしたので、娘も福島で育てたいと思い、出産を機に戻りました。

震災が起きたのは、娘の卒園式の前日。その日から何もかもが変わってしまった。放射能に関する情報が錯綜し、外遊びができなくなり、家に閉じこもる日々が続きました。福島の自然の中で子育てをしたいと思って戻って来たのに、子どもを家の外に出してあげることができない。
震災直後は毎日泣いていましたね。もうこの町には住めないと、自主避難をした人もたくさんいました。私も迷ったけれど、家庭の事情でどうしてもここを離れることができなかった。残るからには、ここで頑張って生きていくしかないと腹をくくりました。

─── そうだったんですね。活動を始めたきっかけは?

そんなときに、「保養」の情報を得たんです。「保養」とは、放射能に不安を抱える人が、休日などを活用して居住地を一時的に離れ、放射能量の少ない場所で心身の疲れを癒そうという活動のこと。原発事故の後、外遊びができなくなった娘を連れ出し、久しぶりに自然の中で思い切り遊びました。

そのときに、科学者が中心になって立ち上げた「市民放射能測定所」(のちの「ふくしま30年プロジェクト」)の立ち上げスタッフにならないかと声をかけられたんです。
はじめは自分にできるのかな、という不安がありましたが、放射能についていろいろな情報が氾濫し、何を信じていいのか分からなかったので、一人の母親として、わが子を守る判断材料が欲しいという思いで参加することにしました。

─── 主にどんな活動をしてきたのでしょうか?

福島の食品や環境の放射能測定を中心に、講演会や交流会、保養などを行っています。メンバーの中心は科学者たちですが、放射能について本当のことを知りたいのは、ここで暮らし、子育てをするお母さんたちです。
専門家を前にすると、「こんなことを聞いてもいいのかな?」「こんなことを聞いたらおかしいかな」という遠慮がどうしても出てしまいます。そこで、お母さんたちが気軽に相談ができる場を作ろうと、同じ立場である私のような人をメンバーに加えたかったのだと思います。実際、いろいろな声を聞くことができました。

これは「福島あるある」なんですが、福島の人って人前で意見を言わないんですよ。思っていることがあっても言えない、または我慢してしまう。特に放射能の問題は立場によって考え方が大きく違ってくるので、言いにくいんです。でも、不安に思っていることは、やっぱり聞きたいし、知りたい。そんなお母さんたちの不安を少しでも和らげることができたら……。それには、まずは声を聞くこと。そして、正確な数値を測り、現状を知り、自ら判断することが大事だと思いました。

─── 状況が状況だけに、つらいこともあったと思うんですが

こういう活動をしていると、「福島が風評被害から立ち直ろうとしているのに、不安を煽っている」「反原発だ」と、中にはよく思わない人もいます。ツイッターの書き込みに「被害者ぶっている」とか「放射脳」と書かれたときは、さすがにへこみました。そんなときに支えになってくれたのが、一緒に活動をしている仲間や自分を頼ってくれる人たちでした。

娘の存在も大きかったですね。その後、私は最終的に理事長になるのですが、理事長になってからは、全国に公演へ出向く機会が増えました。娘が小学校高学年の頃は、留守中、実家の母に預けていたのですが、母が娘を気遣って「ママがいなくてかわいそうね」と言ったら、「そんなことないよ。ママは福島の子どもたちのために頑張ってくれているんだよ!」と言っていたそうで。それを聞いたときは嬉しかったですね。

─── 初めは一人のお母さんとして参加した活動でしたが、いつの間にか理事長という大役を任されるようになったんですね。
佐原さんはもともと人前に立つタイプだったのでしょうか?

いいえ、まったく。東京に暮らしていた頃は、化粧品会社でエステの仕事をしていたのですが、周りはみんな積極的で、私は目立たない存在でした。でも、福島に戻って、娘の幼稚園のPTA会長を3年間やって、かなりコミュニケーション力が鍛えられました。それと、性格的にすぐに立ち直れるタイプみたいでして。何かつらいことがあっても、気の合う友達と美味しいものを食べながらおしゃべりをしているうちに、すぐに元気になってしまうんですよ(笑)。

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