006

シェアする場をつくりたい、変化を続けるこの場所に

齋藤寛子

イラストレーター/アーティスト/放課後等デイサービスでのアートの先生
宮城・石巻

田舎暮らしに憧れて、19歳で石垣島へ

─── 畑、やってるんですね。
はい。実家がイチゴ農家でイチゴの手伝いもするんですが、ここは私がやりたいって始めた思い入れのある畑で、今は畑がすごく大事で生きがいになってます。もともと、土いじりが大好きなんです。イチゴのほか、自分の家で食べる野菜は家の畑で作ってるんですけど、自分は無農薬で作れないかなあってずっと思っていて。思ってるだけじゃダメだなと、実験みたいな感じで作ったらちゃんと野菜ができて、このロマネスコなんて一切水を与えず、太陽と雨水だけで育ったんです。葉っぱから顔を出し始めた時、涙が出るくらい嬉しかった。これがあればいいなと思えました。始められてすごくよかった。

─── 結構、広いですよね。一人でやってるんですか?
参加型の畑にしてるんです、参加費は生ゴミ(笑)。自分たちの家庭から出る生ゴミで土作りをして、できた野菜を一緒に食べています。男女、国籍、障がいの有無関係なく友達20人くらいと、その家族や子どもたち。子どもづれが多いですね。みんなで、土に触れて、ひと汗かいて。畑つながりってすごいみんな仲良くなるんですよ。ただ会ってお茶するだけじゃない関係性を作れる。

─── 石巻のこの辺り蛇田地区は内陸だから、震災後に復興住宅や団地、商業施設が随分建ってきていますね。寛子さんはここの出身で、震災後にUターンしてきたんでしたっけ。
Uターンというか、19歳の時に石垣島に行って、25歳で戻ってきました。

─── 沖縄!? なぜまた?
それが……子どもの時にNHKドラマの「ちゅらさん」を見て、こんなところが日本にあるのかって衝撃で、ずっと憧れが強くて。高校2年生の時に姉と2人で遊びに行きました。そのあとどうしても一人旅で行ってみたくて、高校3年生18歳の春休みに一人で石垣島と離島めぐりに行ったんですよ。その時にはもう、ここに住もうって思ってました。

高校卒業後にバイトでお金を貯めて石垣島に行き、18歳の時に泊まったゲストハウスで泊まって住み込みのバイトを始めました。

─── 石垣島の何が寛子さんを引き付けたんでしょう?
「田舎暮らし」をしたかったんですよね、おばあちゃんみたいな暮らしとか、昔ながらのお家に暮らすっていう夢があって。ずっと日本の原風景みたいなものに憧れを抱き続けているのかも。

高校2年生から3年生になる頃に近くに大きなショッピングセンターができて、少しずつ石巻が変わり始めているなって実感がありました。私の好きだった田んぼの風景とか、畑の風景とかが消えていくのが辛かったんですよね。一方で、石垣島は自然豊かで、自然とともに暮らしているように思えました。

─── それにしても、すごい行動力ですね。雰囲気が柔らかいから意外です。
意外と、そうなんです。決めたらやるというか。

石垣島でも最初は移住者がやってる居酒屋で働き始めたんですが、石垣って移住者が多くて。このままだと島の人と出会えないな、もっと、島の文化をいろいろ知りたいなあと思って、地元のおじいちゃんやおばあちゃんしか来ないような日用品ストアでレジ打ちの仕事を始めました。これは本当に楽しかった。島の人たちとの会話ももちろん、文化の違いを間近で知ることもできました。旧暦での行事とか、お祭りとか、そういうのが、宮城とは違う。食文化の違いも面白かった。お正月に「中身汁」食べることとか。

─── 震災のニュースは、石垣島で聞いたんですね。
そうです。震災の時、20歳でした。帰省して、石巻市民会館でできた最後の成人式に出ました。その3月が震災でした。

一番に思ったのは、とにかく、帰らなきゃっていうこと。4月に帰って、避難所クラブ(現・NPO法人にじいろクレヨン)の活動を手伝いました。避難所を回って、子ども達と一緒に絵を描いたりいろんなものを作ったりする活動をしていました。担当していた東松島市の大塩市民センター避難所での活動が終わるまでいて、11月に石垣に戻りました。

─── それからまた5年くらい石垣島にいて……
はい。石垣島が大好きで充実した日々を過ごしていたんですが……。帰ってきた理由は様々あるんですけど……すごく感覚的なところで言うと、南の島の人間になりきれなかった。それがずっとあって……やっぱり東北なのかなと。

それと、石巻を出ようと思ったきっかけと矛盾するように聞こえるかもしれませんが、一年に一度は里帰りしてたんですね。すると、風景がちょっとずつ変わっていく。変わっていく石巻を見ていたい、見逃したくないという思いがだんだん湧いてきて。

私、蛇田中学校が母校なんですけど、前はその周りって全部田んぼだったんです。それが今、街になった。そのことが私の中でショックな一方で、その途中をちゃんと見届けたいと思って。

帰ってきたのが2015年で、その頃、復興の建設工事が本格的に始まっていました。

1 2